清朝支配の拡大
- 康熙帝:ネルチンスク条約(1689)、外モンゴル平定、チベット・青海服属。
- 雍正帝:官吏の綱紀粛正、軍機処設置、キャフタ条約(1727)。
- 乾隆帝:四庫全書編纂、禁書、ジュンガル・回部征服し新疆と命名、最大版図現出。
清朝支配の拡大
康熙帝・雍正帝・乾隆帝の約130年間が清の最盛期であり、この時期にその領土は最大限に達していた。領土の拡張を推し進めていった清は、北方地域において、当時東進してきた帝政ロシア(ロシア・ツァーリ国)と衝突した。海外植民地をもつことのできなかったロシアは、16世紀後半から東方のシベリア地域の開発に積極的に取り組み、植民などをおこなっていた。17世紀前半にはオホーツク海に達し、1643年には黒龍江(アムール川)沿いに進出した。清はロシアの前進基地を破壊したが、両者の戦いは断続的に行なわれていた。 三藩の乱を平定した康熙帝は、1689年、ピョートル1世(ロシア皇帝)との間にネルチンスク条約を結び、両国の国境をスタノヴォイ山脈(外興安嶺)とアルグン川の線と定め、国境貿易などを取り決めた。これは清が外国と対等に締結した最初の条約で、中国東北地方全域を確保し、ロシアの南下を阻止した。一方、中央アジアの天山北路付近には、明代オイラトの後裔であるモンゴル人が住んでいたが、その中のジュンガル部に英主ガルダン・ハーンが現れて急速に強大となり、オイラト部を統一した。彼は、さらに東進して青海地方を併合し、チベット・外モンゴルをも勢力下におくなど、大勢力となった。これに対して康熙帝はみずから大軍を率いてジュンガルの軍を破り、外モンゴルと青海地方を清領とした(1696)。さらにチベットに侵入してきたジュンガル軍を撃退し、チベットを版図におさめた(1720)。外モンゴルが清領となったことから、清はここでもロシアと国境を接することになった。そこで康熙帝のあとをついだ雍正帝は、1727年、ロシアとの間にキャフタ条約を結び、モンゴル方面の国境の画定、交易場の設置などを取り決めた。
雍正帝の皇位継承法

満州族には、ハンの継承者を生前に決めておく習慣がなく、ホンタイジや順治帝、康熙帝は兄弟から推されて皇位継承者となった。康熙帝は一時、中国風にならって皇太子を指名したが、兄弟争いがおこったため皇太子を決定しないまま世を去った。混乱の中で即位した雍正帝は、皇太子争いを防ぐため新しい方法を考案した。すなわち皇子らを学問所に入れ武道学芸をきそわせ、皇帝にふさわしい皇子を見定め、その名を記した書状を密封した箱に入れ、宮殿の玉座の背後にかけられた「正大光明(公正で堂々と潔白なこと)」という扁額のうしろにおき、皇帝の死後開封され、初めて後継者が指名されるというしくみである。この皇帝継承法を「蜜建の法」といい、以後うけつがれた。この法により最初に選ばれたのが、雍正帝の第4子、のちの乾隆帝である。
堕落したチベット仏教を改革しようとしたのが、ツォンカパ(1357〜1419)である。彼は従来のチベット仏教が中国王朝の厚遇をえて退廃したのを厳しく非難し、厳格な戒律の実行を説いた。従来の宗派を総称して紅帽派(紅教)というのに対して、彼の派を黄帽派(黄教)という(またはゲルクパ(徳行派)という)。これは僧侶が着用した僧帽の色による区別である。以後、黄帽派の教主(法王)がラサを首都としてチベットの政治と宗教を支配するようになった。16世紀後半にはモンゴルのアルタン・ハーンが黄帽派チベット仏教の信者となり、彼は教主に対してダライ・ラマの尊称を贈った。

ダライ・ラマ:ダライは「大海」を、ラマは「師」を意味し、チベットにおける政治・宗教の最高権力者である。
これ以降、チベット仏教の教主はダライ・ラマと呼ばれる。アルタン・ハーンが黄帽派チベット仏教の信者となって以後、モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。1720年、チベットを領土とした清は、ダライ・ラマなどの活仏を保護・厚遇したが、これはチベットはもとより、チベット仏教信者の多いモンゴルの人々の支持をえようとしたのである。
ラマの遺言で指定した地域から1年以内に生まれた幼児のなかから、神異のある者をラマの生まれかわり(転生)として選び、これを活仏とした。妻帯を禁じた黄帽派が、教主継承方法として制度化したもので、現在にいたっている。