「17世紀の危機」と三十年戦争
三十年戦争(マテウス・メーリアン作)©Public Domain

「17世紀の危機」と三十年戦争

17世紀、ヨーロッパの全般的危機の原因については諸説ある。アメリカにおける銀の生産の低下、小氷河期、16世紀の経済発展が一応の限界に到達したためなど。むろん、三十年戦争によるドイツ地方の疲弊も重要な要因とみなされている。

「17世紀の危機」と三十年戦争

南・北アメリカやアジアへの進出がみられた16世紀とは対照的に、17世紀のヨーロッパ経済は、対外進出がとまり、人口や貿易も規模がむしろ小さくなりはじめたうえ、物価も下降線を描き、典型的な「縮小」ないし「下降」の局面に入った。とくに、ヨーロッパを中心とする世界経済の重要な柱となっていたアメリカ貿易と東欧・バルト海との貿易は、停滞の色をこくした。

こうした経済的危機は社会に不安をもたらし、たとえば「危機」の影響のもっとも少なかったイギリスにおいてさえ、一度は消滅していた「魔女狩り」のような現象が復活するなどした。

「魔女狩り」は、カトリックの世界では比較的少なかったが、イギリスやニューイングランドのようなピューリタン社会ではとくにひどく、寡婦かふなど社会的に弱い者が犠牲になることが多かった。

社会不安は政治をも不安定にし、世紀中ごろを中心に、イギリスのピューリタン革命やフランスのフロンドの乱(貴族の反乱)、スペインでのカタルーニャ反乱など、多くの革命や反乱をもたらした。これが、全体として「ヨーロッパの全般的危機」と呼ばれている現象である。

危機の原因については諸説があって明確ではないが、アメリカにおける銀の生産の低下やヨーロッパにおける気温の低下などが考えられているほか、16世紀の経済発展が一応の限界に到達したためとみる見方も有力である。むろん、いわゆる三十年戦争によるドイツ地方の疲弊も重要な要因とみなされている。

17世紀のヨーロッパは、小氷河期といわれるほど平均温度が下がり、農業生産に深刻な影響を与えた。たとえば、かつてはイギリスでも栽培されていたブドウがとれなくなった。
17世紀ヨーロッパの戦争と内乱地図
17世紀ヨーロッパの戦争と内乱地図 ©世界の歴史まっぷ

ドイツでは、アウクスブルクの宗教和議以降も、諸侯はプロテスタント連合とカトリック連盟に分かれて、ことあるごとに対立をくりかえしていた。1618年、皇帝がカトリック教徒をボヘミア(ベーメン)国王に任命して対抗宗教改革を強制しようとしたところ、プロテスタントの民衆が、これに反対して蜂起したことから、三十年戦争(1618〜1648)が始まった。プロテスタント側は、別の王国をたてて抵抗したが、皇帝はスペインの支援をえて、これを打ち破った。

  • しかしその後、この抗争は、ドイツ全域はもとより、スウェーデンやデンマークなどをも巻きこみ、全欧的な長期の大戦争となった。
  • まず、ルター派のデンマークが、同じプロテスタントのイギリスとオランダから資金援助をえて、領土の拡大をめざしてドイツに侵入した。
  • カトリックの側では、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(1583〜1634)を司令官とする皇帝軍が、スペインの支援をえてこれに応戦した。
  • 1629年には戦況が後者が有利となり、いったん講和が成立したが、
  • 翌年、今度はスウェーデンがグスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)(位1611〜1632)のもとにドイツ侵入をくわだてた。スウェーデンは宗教上はプロテスタントであったにもかかわらず、カトリック国フランスの援助をえて、この戦争に加わったのである。宗教的関心より、北欧・バルト海をめぐる覇権争いを重視したためである。
  • 1632年に、ライプチヒ近郊のリュッツェンの戦いではスウェーデン軍が勝ったが、グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)は戦死した。
  • 1635年からはフランスがスペインに宣戦した。
  • 状況が膠着状態となった結果、ようやく1644年から講和会議が開かれ、
  • 1648年ウェストファリア条約ヴェストファーレン条約)で平和が訪れた。多数の国が参加する国際条約のはしりとなったこの条約では、宗教面ではアウクスブルクの宗教和議の原則が確認され、カルヴァン派の信仰も公認された。この結果、ドイツにおける宗教紛争はこれによって一応の決着をみた。
17世紀なかばのヨーロッパ地図
17世紀なかばのヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

しかし同時に、フランスが新教派のスウェーデンを支持したことにみられるように、この戦争そのものに、ヨーロッパの覇権争いの意味が含まれていた。この意味で、三十年戦争は、宗教戦争としては最後の戦争となったのである。ウェストファリア条約ではまた、ネーデルラント共和国(オランダ共和国)とスイスの独立が国際的に承認された。またこの戦争によって、皇帝=ハプスブルク家の勢力が衰退し、北ドイツの一部をえたスウェーデンの力が強くなった。

略年表

ヨーロッパ主権国家体制の展開

1562ユグノー戦争(〜98)
1571レパントの海戦
1572サン・バルテルミの虐殺
1580スペイン、ポルトガルを併合
1581オランダ独立宣言
1588イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦
1589フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝
1598フランス、ナントの王令ユグノー戦争終結
1603イギリス、シュチュアート朝(〜1714)
1607イギリス、ヴァージニア植民地設立
1613ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917)
1618ドイツ三十年戦争(〜48)
1620メイフラワー号、プリマス着
1628イギリス、権利の請願
1640イギリス、ピューリタン革命開始(〜49)
1643フランス、ルイ14世即位(〜1715)
1648ウェストファリア条約
1649イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60)
1651イギリス、航海法
1652イギリス・オランダ戦争(〜74)
1653イギリス、クロムウェル、護国卿となる
1660イギリス、王政復古
1682ロシア、ピョートル1世即位(〜1725)
1688イギリス、名誉革命
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