フランス宗教戦争〜改革と狂信
虐殺跡を視察するシャルル9世(フランス王)の母后カトリーヌ・ド・メディシス(黒服)(Édouard Debat-Ponsan画/Musée d’art Roger-Quilliot蔵)©Public Domain

フランス宗教戦争〜改革と狂信

> >


フランス宗教戦争〜改革と狂信

フランスにもルターの影響をうけた福音主義の改革運動がさかんになり、ブルボン家のナバラ王アンリを指導者とするユグノーと呼ばれるカルヴァン派が浸透し、王室は異端として厳しく取り締まり、ユグノー戦争が始まった。アンリ3世(フランス王)が暗殺され、ヴァロワ家が絶えるとナバラ王アンリがアンリ4世(フランス王)として即位。カトリックに改宗し、ナントの王令を発して内乱を収拾した。

フランス宗教戦争〜改革と狂信

フランスでは、百年戦争以来、王権が強化されてきた。一方、フランスにもマルティン・ルターの影響をうけた福音主義(聖書の福音書をつうじ、直接神の言葉に接し、ここに信仰の基礎をおこうとするルターなどの立場)の改革運動がさかんになった。王室はこれら「異端」を厳しく取り締まったが、ジュネーヴからジャン・カルヴァンが改革運動を指導するようになると、改革派は組織化され、その勢いを増していった。ジュネーヴから伝道者が送りこまれ、各地の改革教会が組織された。都市の知識人、中産市民層、地方や宮廷の貴族にもユグノー Huguenot と呼ばれたカルヴァン派が浸透していった。

ユグノーは、人口の上では少数であったが、王権による中央集権化に対抗する中小貴族、指導者としてブルボン家のナバラ王アンリなど有力貴族も含み、社会的・政治的に無視できない勢力となった。カトリックの指導者である有力な貴族にはギーズ公がいて、ユグノーに強硬な姿勢をとった。ギーズ公は国民の多数派のカトリック教徒に大きな影響力をもっただけに、王室にとっては警戒すべき存在であった。シャルル9世(フランス王)(位1560〜1574)が幼少で即位して以来、宮廷ではメディチ家出身の母后カトリーヌ・ド・メディシス(1519〜1589)が実権を握っていたが、彼女は新旧両教徒を対立させたバランスのうえに王権の伸張をはかろうとした。

1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争(1562〜1568)と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン・バルテルミの虐殺では、コリニー提督(ガスパール・ド・コリニー)をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

この事件に関する死者は全国で3,000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ・ド・メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。アンリ3世(フランス王)によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

アンリ3世(フランス王)が暗殺されてヴァロワ朝が絶えると、1589年、ナバラ王であったブルボン家のアンリがフランス国王位に登った(アンリ4世(フランス王)(位1589〜1610))。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、この一方、1598年にはナントの王令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。

略年表

ヨーロッパ主権国家体制の展開

1562ユグノー戦争(〜98)
1571レパントの海戦
1572サン・バルテルミの虐殺
1580スペイン、ポルトガルを併合
1581オランダ独立宣言
1588イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦
1589フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝
1598フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結
1603イギリス、シュチュアート朝(〜1714)
1607イギリス、ヴァージニア植民地設立
1613ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917)
1618ドイツ三十年戦争(〜48)
1620メイフラワー号、プリマス着
1628イギリス、権利の請願
1640イギリス、ピューリタン革命開始(〜49)
1643フランス、ルイ14世即位(〜1715)
1648ウェストファリア条約
1649イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60)
1651イギリス、航海法
1652イギリス・オランダ戦争(〜74)
1653イギリス、クロムウェル、護国卿となる
1660イギリス、王政復古
1682ロシア、ピョートル1世即位(〜1725)
1688イギリス、名誉革命
広告