秦・漢帝国と世界
秦・漢の時期に、中国では皇帝を中心とした巨大な国家がつくりあげられた。官僚制と儒学に支えられた皇室による統治は、清朝まで2000年余り中国の国家体制の基本であった。現在、英語のチャイナ、フランス語のシィンは「秦」に由来する。また「漢族」「漢字」など漢という王朝名は、現在でも中国文化を代表する語として用いられている。
秦・漢帝国と世界
秦・漢の時期に、中国では皇帝を中心とした巨大な国家がつくりあげられた。官僚制と儒学に支えられた皇室による統治は、清朝まで2000年余り中国の国家体制の基本であった。現在、英語のチャイナ、フランス語のシィンは「秦」に由来する。また「漢族」「漢字」など漢という王朝名は、現在でも中国文化を代表する語として用いられている。
光武帝(漢)以後数代にわたって国力の充実をはかった後漢は、やがて積極的な対外政策に転じ、匈奴の分裂に乗じて南匈奴を服従させ、北匈奴を北方に追い払って、西域の経営に力を注いだ。
さらに和帝(漢)のとき、西域都護に任命された班超(91年に西域都護)は匈奴を討って西域経営に大いに力を入れ、1世紀の終わりにはカスピ海以東の50余りのオアシス都市国家が漢に服属するようになった。
前漢の宣帝(漢)のとき(紀元前59)、匈奴の投降を契機に西域統治の機関として亀茲に西域都護府をおいた。その長官が西域都護である。前漢末の内乱によって西域に対する統治は途絶え、西域諸国も漢から離反した。それを復活したのが班超である。
そして西方の事情の一部が中国に伝わり、ローマ帝国(大秦)の存在も知られるようになった。また97年には、班超の部将の甘英を大秦国に派遣し東西交渉の利益確保を目指したが、甘英は条支国にいたり断念して帰国した。その後、2世紀の中頃になると、海路、後漢の日南郡(ベトナム中部)に大秦国安敦(ローマ帝国第16代皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使節と称するものがやってきた(166)。このように、後漢時代には、陸路および海路を利用する東西の交渉がさかんに行われるようになった。
また、前漢以来、倭人は朝鮮におかれていた楽浪郡との間を往来していたが、後漢のはじめには、北九州にあった奴国の使者が洛陽に赴き、光武帝(漢)から印綬(「漢委奴国王印」)を与えられた(57)。
漢委奴国王印
1784年(江戸時代)、北九州の博多にある志賀島(福岡市)で、農民の甚兵衛が田の用水路をなおしていたとき、金印を発見した。甚兵衛は庄屋と相談して藩主の黒田家に届けでた。その印面には「漢委奴国王」と彫られており、光武帝によって奴国王に与えられたと『後漢書』に記されている印綬であると考えられている。
2世紀に入ると、後漢では幼帝が続き、外戚や宦官が政治の実権を握るようになった。これに反対する儒教の教養を身につけた官僚や学者は、宦官によって弾圧され(党錮の禁, 166・169)、国政は乱れた。また地方では豪族が勢力をふるって農民を圧迫した。重税と豪族の圧迫に苦しんだ農民は、各地でしばしば反乱をおこした。とりわけ184年に華北一帯に広がった大農民反乱である黄巾の乱を契機として、群雄割拠の時代となり、後漢政府の支配力は完全に失われた。やがて後漢は、群雄のなかでもっとも有力であった曹操の子曹丕によって滅ぼされた(220)。
黄巾の乱
後漢の中ごろからおこった外戚・宦官・豪族の勢力の増大および大土地所有者の進行などによって、農民の生活は窮乏し各地で農民反乱が続いた。そのなかで最大のものが、184年におきた黄巾の乱である。
これは、太平道という宗教結社を始めた張角が指導したもので、黄色の布を頭に巻いたことから「黄巾の賊」と呼ばれた。後漢の政府は、この反乱を容易に鎮圧できず、豪族の協力をえて同年末までに主力を撃破することができたが、これに呼応した反乱はこのあとも各地で相次いだ。こののち政府の命令は行き渡らず、群雄割拠の時代となった。