主権国家体制 絶対王政の経済・社会政策 絶対王政とは 主権国家 主権国家と絶対王政のしくみ図
主権国家と絶対王政のしくみ図 ©世界の歴史まっぷ

絶対王政とは

絶対王政は、官僚制度を整備し、封建契約にもとづく軍隊にかえて賃金で雇った常備軍を設けて、これらを基盤として専制政治を展開し、封建貴族の勢力に対抗して近代的な国民国家の統合を進めたが、地方では貴族や聖職者の特権も残っており、王権自体それらに依存する一面もあったから、過渡的な性格にとどまった。絶対王政の権力そのものも、みかけ上は強力にみえたが、実際には危ういバランスの上にたっていたため、支配権が神によって授けられたものだとする「王権神授説」によって、自己の権力を正当化しようとした。

絶対王政とは

中世末、領主のもとに隷属する農奴をおもな労働力としてきた「マナー(荘園)」経済は、しだいにゆきづまりはじめた。危機に陥ったヨーロッパ各国の伝統的な領主層、すなわち、貴族や聖職者など封建的な勢力は、自己の経済的衰退をカバーしようと努めていた。他方、新興の市民階級も、力をつけてきたとはいえ、なお単独では政治を動かす力はなかった。このようなあいまいな状況を利用して、国王が見かけ上、絶対的ともいえる専制を確立した。これを絶対王政(絶対主義)という。

しかし、よりくわしくいうと、絶対王政とは、次のという考え方がある。

  1. 15世紀ころから危機に陥った領主=貴族たちが、その権力を国王に集中して市民や農民と対抗しようとしたのだとする
  2. 没落していく領主などの封建勢力と、勃興してきた新興の市民階層(ブルジョワ)との勢力が均衡したため、王権がどちらにつくかでものごとが決定した
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後者の考え方は「階級均衡論」と呼ばれ、ドイツのカウツキーが主張しはじめたとされる。前者の説では、絶対王政は全面的に「封建的」な政権とみなされるのに対し、後者では、半ば近代的な政権ということになるため、絶対王政がおこなった政治の解釈にも、違いがでてくる。

いずれにせよ絶対王政は、一般に封建貴族よりは下の、イギリスでいえばジェントリと呼ばれたような階層から人材を登用して官僚制度を整備し、封建契約にもとづく軍隊にかえて賃金で雇った常備軍を設けて、これらを基盤として専制政治を展開する。こうしてこの時代、国王は封建貴族の勢力に対抗して近代的な国民国家の統合を進めたが、なお地方では貴族や聖職者の特権も残っており、王権自体それらに依存する一面もあったから、過渡的な性格にとどまった。

絶対王政の権力そのものも、みかけ上は強力にみえたが、実際には危ういバランスの上にたっていた。このため絶対王政は、みずからの支配権が神によって授けられたものだとする王権神授説によって、自己の権力を正当化しようとしたのである。

王権神授説

君主権は神から授けられたもので、国民はこれに絶対服従すべきだとする説で、ジェームズ1世(イングランド王)ルイ14世(フランス王)が主張した。16世紀フランスのジャン・ボダンが始め、フランスの神学者ジャック=ベニーニュ・ボシュエ(1627〜1704)によって完成された。しかし、君主の支配権は、大昔、国民との契約によって認められたものだとする社会契約説が、トマス・ホッブズやジョン・ロックによって唱えられ、王権神授説は否定されていった。

略年表

ヨーロッパ主権国家体制の展開

1562ユグノー戦争(〜98)
1571レパントの海戦
1572サン・バルテルミの虐殺
1580スペイン、ポルトガルを併合
1581オランダ独立宣言
1588イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦
1589フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝
1598フランス、ナントの王令ユグノー戦争終結
1603イギリス、シュチュアート朝(〜1714)
1607イギリス、ヴァージニア植民地設立
1613ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917)
1618ドイツ三十年戦争(〜48)
1620メイフラワー号、プリマス着
1628イギリス、権利の請願
1640イギリス、ピューリタン革命開始(〜49)
1643フランス、ルイ14世即位(〜1715)
1648ウェストファリア条約
1649イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60)
1651イギリス、航海法
1652イギリス・オランダ戦争(〜74)
1653イギリス、クロムウェル、護国卿となる
1660イギリス、王政復古
1682ロシア、ピョートル1世即位(〜1725)
1688イギリス、名誉革命
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