40.東ヨーロッパ〜ヨーロッパ主権国家体制の展開
1. 17世紀の危機と三十年戦争
16世紀のヨーロッパは急速な経済成長をとげたが、17世紀の半ばには凶作・不況・疫病にみまわれ、経済・社会・政治のすべての領域で、全ヨーロッパ的規模の危機の時代であった。
ドイツの戦乱はこの「17世紀の危機」の一つのあらわれであった。1618年、ベーメン(ボヘミア)の新教徒がハプスブルク家によるカトリック信仰強制に反抗したのをきっかけに、三十年戦争がはじまった。この戦争には列国の干渉があいつぎ、デンマーク、国王グスタフ・アドルフ率いるスウェーデンといった新教国のほか、ハプスブルク家の強大化をおそれる旧教国のフランスが新教徒を支援し、宗教をこえた国際戦争となった。
三十年戦争は1648年のウェストファリア条約で終結した。ドイツ諸領邦は保護完全に主権が認められ、神聖ローマ帝国は有名無実化した。また条約が諸国参加の会議で成立したことは、主権国家体制の確立を示すものであった。
2. プロイセン・オーストリアとバルト海の覇者
プロイセン王国は、ホーエンツォレルン家の支配するブランデンブルク選帝侯国がプロイセン公国を合わせてできた国で、三十年戦争の被害が比較的少なく、急速に成長し始めた。ユンカーとよばれる領主層が農民支配を強化し、地方行政を担当し、君主の権力を支えた。
プロイセン王国はスペイン継承戦争に参加して王号を許され、フリードリヒ・ベルヘルム1世(プロイセン王)のとき、軍制改革などを行なって絶対王政の基礎を築いた。
1740年に即位したその子フリードリヒ2世(プロイセン王)(大王)は、オーストリアのマリア・テレジアの王位継承問題に端を発したオーストリア継承戦争が始まるとシュレジエンを占領した。しかしマリア・テレジアはその奪回をはかり、フランス・ロシアと結んだ。このとき、長年の敵対関係にあったフランスとオーストリアとが結んだことは「外交革命」といわれ、ヨーロッパの国際関係の転機を示すものであった。
1756年からのオーストリアとの七年戦争でプロイセンは苦戦したが、シュレジエンを確保した。フリードリヒ2世(プロイセン王)は国の近代化に努め、啓蒙思想家のヴォルテールとの親交をもち、「君主は国家第一の僕」と称したので啓蒙専制君主とよばれている。マリア・テレジアもプロイセンに対抗するため行政・軍事・産業に至る改革を行い、その子ヨーゼフ2世も改革を進めたが、貴族や領内異民族の抵抗を受け、多くの改革の試みは成功しなかった。
彼の事業をついで中央集権化を進めたのはエカチェリーナ2世である。彼女は啓蒙専制君主といわれるが、プガチョフの農民反乱の鎮圧後は農奴制の強化をはかった。
東欧の強国であったポーランドは、16世紀後半のヤゲウォ朝の断絶以降、内部対立によって国力が衰退し、隣接する大国の干渉をまねいた。1772年、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国は第1回ポーランド分割を行い、1795年の3回目の分割によってポーランド国家は消滅した。