テオドシウス1世
テオドシウス1世が描かれた硬貨 @Wikipedia
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テオドシウス1世 (347年1月11日~395年1月17日)
ウァレンティニアヌス朝東方帝 (379年 – 395年), テオドシウス朝初代皇帝 (379年1月1日 – 395年1月17日)
ローマ帝国皇帝。東西に分裂していたローマ帝国を再統一し、一人で支配した最後の皇帝。
392年、キリスト教東ローマ帝国の国教に定め、死後二人の息子にローマを分与したため、帝国は東西に分裂した。

テオドシウス1世

キリスト教の強制と帝国の分割

乱れていたローマ帝国を再統一。
キリスト教を国教にした。臨終に際し、二人の息子にローマ帝国を分与したため、ローマ帝国は東西に分裂した。

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生涯

375年 ローマ帝国ウァレンティアヌス朝初代皇帝・ウァレンティアヌス1世死去。息子のウァレンティニアヌス2世とグラティアヌスが共同皇帝となり、ローマ帝国西方を統治。

378年 ハドリアノポリスの戦い

ローマ帝国ウァレンティニアヌス朝皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘でローマ軍は敗退し、ローマ帝国東方帝のウァレンスが敗死。グラティアヌスは隠遁生活を送っていた小テオドシウス(後のテオドシウス1世)をローマ帝国東方の共同皇帝に任命。

ハドリアノポリスの戦いの後、バルカン地域に定住したゴート族とその他の北方蛮族の対策にテオドシウス1世は、終始彼は忙殺される。

379年 サーサーン朝ペルシャの王・シャープール2世が死去。後継者争いの影響でローマ帝国東方に不穏な雲が立ち込めたため、ゴート族にトラキア北部へ、納税義務を負わない同盟者として移住を認めて戦闘を終結する。

379年 テオドシウスは大病を患い、三位一体派のテサロニケ主教(司教)アコリウスから洗礼を受けたため、ニカイア信条(325年に開かれたニケーア公会議では、三位一体性を認めるアタナシウス派が正統と認められ、三位一体性を認めないアリウス派を異端とした、ニカイア信条が採択された。
だが、東ローマ帝国域で三位一体派よりもアリウス派のほうが普及していた。)に忠実であった。

380年 テオドシウスは三位一体派ではなかったコンスタンティノポリス大主教デモフィリスを追放し、後任に三位一体派のナジアンゾスのグレゴリオスをつけた。

379年 テオドシウスは、キリスト教以外の宗教の祭日がキリスト教における平日に行なわれていると罵倒し始める。

380年 テッサロニキ勅令

テオドシウスとグラティアヌス、ウァレンティアヌス2世の3人の東西ローマ皇帝は、「使徒ペトロがローマ人にもたらし、ローマ教皇ダマスス1世とアレクサンドリア総主教ペトロス2世が支持する三位一体性を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する。」という「テッサロニキ勅令」を発した。

381年 テオドシウスは非キリスト教の神に捧げる犠牲を禁じ、「誰も、聖域に行くことはなく、寺院を歩いて通り抜け、人の労働で作成された像を見てはならない」と定めた。当時流行していたミトラ教の集会場として使用されていたカタコンベを破壊、その上に教会を建てようとしていたアレクサンドリア司教テオフィロスの要求に応じたように、テオドシウスは三位一体派の異教や異端に対する攻撃を支持した。これと同様な運命をたどったカタコンベの中には、現在では5世紀のキリスト教カトリックの基礎を形作ったものも多数あり、三位一体派の司教とその信者の行為に多大な影響を与えた。
「女祭司制度」の廃止により、ローマ建国以来フォロ・ロマーノにあり、女祭司が常に絶やさないできた「聖なる火」も消えてしまうことになった。

383年 西方のブリタニア司令官マグヌス・マクシムスが反乱を起こし、ガリアの、テオドシウス1世と共同皇帝であったグラティアヌス帝をリヨンで殺害。
マキシムスはウァレンティニアヌス2世の統治していたイタリア半島を除いた西ローマ帝国の皇帝となる。

384年、ローマ元老院議員シンシマクスは、グラティアヌスの統治下で撤去された元老院議事堂前にあった勝利の女神像を戻すように訴えたが、テオドシウスはこれを拒否する。

387年 マキシムスがイタリアを攻撃するが、テオドシウス1世は撃退し、翌年マキシムスを破る。

388年 キリスト教を国教とする

テオドシウスは元老院議員に対し古代ローマ宗教の廃絶を求める決議を提起。元老院側はほぼ全会一致で賛成した。これにより、キリスト教(三位一体派)は事実上、ローマ帝国の国教となった。

テオドシウス1世
勝利の月桂冠を勝者に与えるテオドシウスを描いたコンスタンティノープル競馬場のオベリスクの台座に刻まれたレリーフ Source: Wikipedia

390年 テオドシウスはエジプトのカルナック神殿からコンスタンティノープルのコンスタンティノープル競馬場(大戦車場)に、戦勝祈念としてヘーリオスのオベリスクを運んだ。
このオベリスクの台座の白い大理石面に刻まれた皇帝一家の浅彫りは、旧来のローマ・ギリシア的自然主義美術ではなく、キリスト教的抽象的美術に基づいて刻まれており、テオドシウス一家と貴族や民衆の間に歴然とした壁が存在していたことを読み取ることができる。
彼らの顔は順序や秩序で構成されている。これは、芸術の分野でもキリスト教の侵出が目立ち始めていたことを如実に物語っている。

390年 テッサロニカの虐殺

ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺(テサロニケの虐殺)が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺。)
戦車競走で市民のアイドルだった騎手の逮捕がされ、市民が無条件即時釈放を要求して暴動を起こし、釈放を拒否したゴート人の総督とその幕僚たちを、蛮族差別意識も重なり、テサロニケのキリスト教徒が暴徒化して惨殺した。報告を受けたテオドシウス1世は、「同胞と戦って血を流してもお前たちを守ってくれている蛮族出身将兵を殺すとは何事か。」と激怒し、徹底的鎮圧と暴徒の無差別殺戮を命じ、市民1万5千人余りを虐殺した事件。(参考: (3)テサロニケ事件より)

392年 ウァレンティアヌス2世も、西方帝マグヌス・マクシムスから襲撃され、テオドシウス1世がマグヌス・マクシムスを打倒するが、ウァレンティアヌス2世はフランク人アルボガステスに殺される。

ウァレンティアヌス2世が死去した後、フランク族出身の軍司令官アルボガストは元老院議員エウゲニウスを皇帝に推挙した。簒奪者エウゲニウスはテオドシウスに対抗し、弾圧されつつあった古代ローマ教を擁護する政策を採った。

393年 古代オリンピック廃止

テオドシウスは、すでに衰退しつつあった古代オリンピックを廃止。同時に、オリンピックの開催年を1周期にしたオリンピアードも廃止した。

394年 フリギドゥスの戦い

ローマ帝国の東側を支配するテオドシウス1世と西側を支配するエウゲニウスとの戦い。敗れたエウゲニウス側にはローマのキリスト教化に反対する元老院議員達も加担しており、勝利したテオドシウスによってローマ伝統の宗教は否定され、徹底的に弾圧される事になった。
簒奪者エウゲニウスを破り、テオドシウス1世は唯一の皇帝となる。

395年 テオドシウス1世死去。帝国をコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、メディオラーヌムを首都とする西ローマ帝国に分割し、2人の息子をそれぞれ帝位につけた。

ミラノ主教(司教)アンブロジウスの影響

テオドシウス1世
Saint Ambrose barring Theodosius from Milan Cathedral, Anthony van Dyck, c. 1620 ©Public domain (ナショナル・ギャラリー蔵) 

これらのテオドシウス勅令は、テオドシウス本人が考えたものではなく、ミラノ主教(司教)で三位一体派であったアンブロジウスの影響が強く現れていた。
キリスト教の下では相手がたとえ皇帝であろうとも、主教(司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。アンブロジウスはこれをテオドシウスを御するための手段とする。
390年のテッサロニカの虐殺で、アンブロジウスは、テオドシウスが派遣した軍が住民を多数殺害し、暴徒化したテサロニケのキリスト教徒を鎮圧したことに激怒。報復が過剰であったと抗議し、テオドシウスを公式な謝罪があるまで破門に処すと訴えた。テオドシウスは破門の処分を受けても約8ヶ月間は抵抗したが、ついに屈し、司教の足元に許しを請うた。

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