対金戦争 モンゴル帝国と金(王朝)との間で行われた戦争。
第一次対金戦争 1211年〜1215年 チンギス=ハン率いるモンゴル帝国と金(王朝)との間で行われた戦争。モンゴル軍が大勝した。 この結果、東アジア諸国の力関係は激変し、金朝の本土である満州ではモンゴルに投降する集団が数多く出た。
第二次対金戦争 1230年〜1234年 オゴタイ率いるモンゴル帝国と金(王朝)との間で行われた戦争。この戦争で金は完全に滅亡した。
第一次 対金戦争
背景
モンゴル高原では9世紀に回鶻(ウイグル国)が崩壊して以来、強力な統一政権が存在せずさまざまな遊牧民が部族連合を形成し、お互いに抗争していたが、12世紀末チンギス=ハンにより統一されモンゴル帝国を形成した。
一方、金(王朝)は金の第5代皇帝・世宗(金)による政策にもかかわらず漢化が進み、弱さを露呈しつつあった。モンゴル帝国は強力な遊牧政権の常として周囲への勢力拡大を図り、その最初の目標として隣接する最も豊かな国、金を視野に収めつつあった。
経緯
モンゴル帝国はまず西夏との戦争を開始し、攻城戦に苦労したもののモンゴルの宗主権を認めさせ、また天山ウイグル王国も服属させ、後顧の憂いをなくした。
1211年、ついに金と開戦したモンゴル帝国は兵力のほとんどを結集し、本拠地にはわずかの兵を残し、まさに総力戦とでも言うべき体制をとった。
モンゴル帝国はまず内蒙古にいた契丹系の遊牧軍団を服属させ、金の力を大いに削った。攻城戦では西夏遠征の時と同じく主要な都市の攻略には失敗したものの野戦では勝利を重ね、また略奪することを主な目的としたためモンゴル軍は迅速な行動に徹することができ、金軍を相手に勝利を重ねた。
また、1213年には将軍胡沙虎によってクーデターがおこり、金の第7代皇帝衛紹王が殺され胡沙虎自身も殺されたことで金は混乱を極め、しだいに金の首都中都(現 北京)は孤立していった。そこで中都を包囲したモンゴル軍は金に「城下の盟」を求め、金もそれに応じたことで、いったんモンゴル軍は内蒙古に退いた。
しかし、モンゴルを避けるため金の第8代皇帝・宣宗(金)が南の開封に逃れようとした際に契丹系などの諸族の混成軍が反乱を起こし、モンゴルに援軍を求めたため、モンゴル軍は再び南下して中都を落とし、モンゴルと金の戦闘は終了した。
影響
この戦争の結果、金(王朝)は黄河より北のほとんどの領地を捨て、一地方政権に没落した。この結果、東アジア諸国の力関係は激変し、金朝の本土である満州ではモンゴルに投降する集団が数多く出た。
また一連の戦闘において、誕生したばかりのモンゴル軍は攻城戦をはじめとしてさまざまな経験をつけ、後の征服戦争に役立てられることになる。
のちに後継者オゴタイ=ハンの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス=ハンに見出されてその側近となっている。
第二次 対金戦争
背景
1206年にチンギス=ハンによって建国されたモンゴル帝国は第一次対金戦争、またチンギス=ハンの西征によって一躍その名をユーラシア諸国に轟かす大帝国となった。しかし、チンギス=ハンの時代のモンゴル帝国はひたすら征服戦争を行い続けたため、その国家体制はいまだ盤石といえず、チンギス=ハンが1227年に没するとその問題が表面化してきた。
そこで新帝オゴタイ=ハンの政権は、いまだ黄河の南で命脈を保つ往年の大帝国金を滅ぼすことで政権の盤石さを誇示しようとし、準備を始めた。
一方、金も第一次対金戦争で著しくその力を落としたとはいえ、いまだ30万の兵力を擁し、潼関・開封を中心に守りを固めており、容易に倒せる相手ではなかった。そこでモンゴル帝国は、新帝オゴタイ=ハンを中心としてトルイ、テムゲ・オッチギンなどの帝国の有力者が揃った一大作戦を計画した。
経緯
モンゴル帝国は1230年、モンゴル本土をチャガタイが預かり、右翼軍をトルイが、中軍を新帝オゴタイ=ハンが、左翼軍をテムゲ・オッチギンがそれぞれ率いて金領に攻め込んだ。
オゴタイ=ハン率いる中軍は山西を下り、黄河を挟んで金軍と対峙し、時間稼ぎを行った。
また、テムゲ・オッチギン率いる左翼軍はあえてゆっくりと行軍を行うことで地元住民の恐怖をあおり、結果として開封への避難民が急激に増加し、金軍は身動きが取れなくなった。一方、トルイ率いる右翼軍は京兆(今の西安)を落とし、その後強行軍を重ねながらも開封の南方に出て、モンゴル軍は北、東、南から開封を囲むことになった。
そこで金軍が首都防衛のため、やむなく黄河南岸の軍を南下させたことで、戦局が大きく動き、オゴタイ=ハン率いる本隊は大挙して黄河を渡り、南下した金軍主力はトルイと対峙した。トルイは寡勢ながらも完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破り、この大敗によって金軍は抵抗のすべをなくし、1234年に滅びた。
トルイの死
一連の戦争で一番の功績を立てたのは、右翼軍を率いたトルイだった。ところがトルイは、三峰山の戦いのわずか8ヶ月で死んだ。
この間のことを『元朝秘史』などの史書ではいずれも、オゴタイ=ハンの身代わりとなって死んだと記述しているため、あまりに声望を高めたトルイを邪魔に思ったオゴタイ=ハン新政権が謀殺したという説もある。実際、この後モンゴル帝国ではオゴタイ=ハン・チャガタイの両家がモンゴル帝国の中心になり政治を行ったため、トルイの死が両者の権力掌握にとって好都合だったことは確かなようである。
影響
一連の戦闘の結果、モンゴル帝国は対金戦争をほぼ完璧な形で終えたことで、新政権の基盤が盤石であることを示すこともできた。
一方でトルイの死によって、モンゴル帝国の中心はオゴタイ=ハン・チャガタイの両家に完全に移った。後のバトゥの西征の時にジョチ家のバトゥ・トルイ家のモンケがオゴタイ=ハン家のグユク・チャガタイ家のブリと対立した遠因は、このころのオゴタイ=ハン・チャガタイ両家の栄達とジョチ・トルイ両家の不遇という状況に求められるかも知れない。