アンコール遺跡 (アンコールの遺跡群)
トンレサップ湖の北にクメール王朝の旧都がほぼ200k㎡にわたり広がっている。11~15世紀にかけての栄華を今に伝える石造建造物群は、その芸術性の高さからも人類の遺産と呼ぶにふさわしいものである。時の流れと内戦によって崩壊の危機にあるアンコールは、世界遺産と同時に「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録されたが、UNESCOを初め多くの国の支援により、危機遺産から解除された。
アンコール遺跡
ジャングルに隠れていたクメールの都城
ヒンドゥー教寺院アンコール・ワットと都城跡のアンコール・トムに代表される『アンコールの遺跡群』は、クメール人の王朝であるアンコール朝の都市遺跡である。879年、この地はアンコール最古の寺院プリア・コーのヒンドゥー教寺院が建立された後に王都となり、歴代の王が都城と寺院を次々と造営していった。
しかし、1431年ごろ隣国タイ族のアユタヤ朝に滅ぼされると、アンコールの都城と寺院はジャングルの中に埋もれ、忘れ去られてしまった。
アンコール遺跡最大の寺院は、面積2㎢におよぶアンコール・ワットである。その5つの塔は、神々が住む須弥山(メール山)を表現している。堀は6つの大地の間に存在する7つの海を表し、中央の塔を囲む回廊には、ヒンドゥー神話をもとにした「乳海撹拌」や、『ラーマーヤナ』にまつわる場面のレリーフ(浮き彫り)がある。また、のちに仏教寺院に改修されている。
アンコール・ワットの北約1.5㎞に、13世紀初頭に完成した最大の都城アンコール・トムがある。建造したジャヤヴァルマン7世が仏教を篤く信仰していたため、アンコール・トムには仏教的要素の強い建造物が多い。
1860年、フランスの博物学者アンリ・ムオに発見されると、遺跡の調査・研究が進められ、世界の注目を集めた。しかし、1970年代のカンボジア内戦により、遺跡が破壊と崩壊の危機にさらされていたため、停戦成立の翌年、世界遺産登録と同時に危機遺産にも登録された。日本などによる修復支援や保存作業が行われた結果、2004年に危機遺産リストから脱した。
東南アジアの権力者は、港市を支配した
東南アジアは、海上交易(「海の道」)の中継地として、また輸出品の宝庫として注目された。島嶼部や大陸沿岸に住む諸民族は、紀元前後から港市国家を建国し、カンボジアの扶南やベトナム中部のチャンパーなどが栄えた。
アジア・アメリカの古代文明
東南アジアの諸文明
民族国家の形成
真臘
クメール人(カンボジア)
扶南にとってかわった真臘は8世紀はじめに南の水真臘と北の陸真臘に分かれて争い、国力を消耗させて一時シュリーヴィジャヤの勢力下に入ったが、9世紀初めにジャヤーヴァルマン2世が国内を再統一し、クメール王朝(アンコール朝)を開いてから強盛となった。
クメール人(カンボジア人)
クメール王朝(アンコール朝)はアンコール地方に都をおき、その領土はインドシナ半島の中部・南部のほぼ全域におよんだ。また神聖化された王権のもとで、王城やヒンドゥー教・仏教の大寺院がつぎつぎに建造された。
12〜13世紀にでたスーリヤヴァルマン2世とジャヤーヴァルマン7世の時代が最盛期であり、前者によってアンコール・ワット(都城寺院)が建造され、後者によってアンコール・トム(大都城, 最初の建設は9世紀末)が増築された(世界遺産:アンコール遺跡)。アンコール朝では治水・灌漑の技術が発達し、その結果としての農業生産の増大がこの王朝の繁栄を支えた。
しかし13世紀後半に衰退に向かい、14世紀後半にタイのアユタヤ朝に圧迫されて領土を失った。