一条天皇 (
A.D.980〜A.D.1022)
平安時代中期の第66代天皇(在位986年8月1日 - 1011年7月16日)。円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。諱は懐仁。7歳で即位し、藤原兼家が摂政、のちに関白。兼家の死後も長男の藤原道隆が関白を務める。
一条天皇
貴族政治と国風文化
荘園と武士
国司の地方支配
一条天皇の998(永延2)年の「尾張国郡司百姓等解」(尾張国解文)によって訴えられた尾張守藤原元命もその一例である。31カ条にわたるその訴状では、出挙のほかに利息を加徴したり、法外に安い値段で産物を買い上げたり、また田の面積を何倍にも算定して税をとったり、京から「不善の輩」を連れてきて、法外な行為に及んでいる、と訴えられている。政府はこの訴えをとりあげ、国司を解任したものの、やがて元命は他の官職についており、特別な対策が講じられたわけではなかった。
徴税請負人の性格を強めた受領は、やがて課税率をある程度自由に決めることができるようになったため、私腹を肥やして巨利をあげる受領が現れ、その地位が利権視された。成功といって、私財を出して朝廷の儀式や寺社の造営などを助け、その代償として国司などの官職を得ることや、同じ国の国司に再任される重任も行われるようになった。地方で支配に当たっていた受領は、やがて遙任といって地方に赴任せずに、代わりに目代を国衙に派遣して国司としての収入を得ることが多くなった。
受領は有力農民(田堵)に一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、かつての祖・調・庸・公出挙や雑徭などに相当する額の官物(年貢)や臨時雑役(公事・夫役)などの負担を課すようになった。税徴収の対象となる田地は名という徴税単位にわけられ、それぞれの名には負名と呼ばれる請負人の名がつけられた。田堵のなかには受領と結んで勢力を拡大し、ますます大規模な経営を行い、大名田堵と呼ばれるものも多く現れた。
こうして、戸籍に記載された成人男性を中心に課税する律令制的支配の原則は崩れ、有力農民の経営する名と呼ばれる土地を基礎に課税する支配体制ができていった。この支配体制に基づく国家を、特に律令国家と区別して王朝国家と呼ぶことがある。
11世紀後半になると、受領は京に住み、摂関家などに仕えてその経済的な奉仕を行いつつ、重任や他国の国司に移る遷任を繰り返して、富を蓄えていったのである。一方、現地の国の国衙には、留守所と呼ばれる機関が受領の派遣した目代を中心にしてつくられ、その指揮のもとで国衙の行政事務は地方の豪族から選ばれた役人が実務を取るようになった。これを在庁または在庁官人といい、その地位は世襲されていった。
后妃・皇子女
- 皇后:藤原定子(977-1000:号中宮、のち皇后宮) – 関白藤原道隆長女
- 第一皇女:脩子内親王(996-1049) – 一品准三宮
- 第一皇子:敦康親王(999-1018) – 一品式部卿
- 第二皇女:媄子内親王(1000-1008) – 東三条院養女
- 皇后:藤原彰子(988-1074:号中宮) – 左大臣藤原道長長女
- 第二皇子:敦成親王(後一条天皇)(1008-1036)
- 第三皇子:敦良親王(後朱雀天皇)(1009-1045)
- 女御:藤原義子(974-1053) – 内大臣藤原公季長女
- 女御:藤原元子(979?-?) – 右大臣藤原顕光長女、のち源頼定室
- 女御:藤原尊子(984-1022) – 関白藤原道兼女、のち藤原通任室
- 御匣殿(985?-1002) – 藤原道隆四女(皇后定子の同母妹)