シャルル3世(西フランク王)
シャルル3世1(想像画/19世紀/ ヴェルサイユフランス史博物館蔵) ©Public Domain

シャルル3世(西フランク王)


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シャルル3世(西フランク王)( A.D.879〜A.D.929)
カロリング朝末期の西フランク王(在位893年 - 923年(888年 - 898年はウードと並立))兼ロタリンギア王(在位 911年〜922年頃)。単純王と呼ばれる。フランスに侵入してきたノルマン人と和解した。大諸侯に嫌われ、廃位され幽閉されて没した。

シャルル3世(西フランク王)

国王権力弱体化とノルマン侵入の時代に即位。当時貴族の間には正統王朝の血統よりも政治能力上の適格性を重視してパリ伯ウードの家系(カペー家)を国王に推戴しようとする動きがあり、国内を掌握することができなかった。 911年ノルマン族のノルマンディー占拠を法的に追認した(サンクレール・シュール・エプト条約)。

その後、東フランク王位に対する要求を掲げ、ロレーヌ征服事業に熱中したため、ウードのロベール1世を擁立する貴族の反乱が発生した。ソアソンの戦い(923)でロベールを殺したが、自身も捕えられ、獄死。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

フランク王系図
フランク王系図 ©世界の歴史まっぷ

生涯

  • 第2代ルイ2世(西フランク王)(吃音王)の3男として父王の死後に生まれた。母は吃音王の2人目の妻、アデライード。吃音王はシャルルの誕生前に没して、2人の異母兄が共同で王位を継いでいたが、共に早逝し、885年に東フランク王国のカール3世が西フランク王を兼務し(カール3世(フランク王))、シャルルはカール3世に後見された。
  • 当時西フランク王国は、ノルマン人・サラセン人・マジャル人の侵入に苦しんでいた。887年にカール3世(フランク王国)が失脚した次の王には、885年 – 886年のノルマン人の包囲からパリを護った英雄、ロベール家のウードが選ばれた。聖俗諸侯が力を付け、王を世襲でなく選挙で決める時代になっていた。
  • ウードの治世下の893年1月28日、シャルル3世はランスのサン=レミ聖堂で、カロリング派のフルク司教により聖別され戴冠した。
  • 両派が3年争って後、ウードはシャルル3世にセーヌ北部を渡し、シャルルを次の王に指名して、898年1月に没した。19歳のシャルル3世は、漸く西フランク全体の王になった(シャルル3世(西フランク王)単純王)。
  • 911年単純王は、侵入するノルマン人のロロ(徒歩王)とサンクレール・シュル・エプト条約(le traité de Saint-Clair-sur-Epte)を結び、ロロのキリスト教への改宗を条件にノルマンディー地方を与えてロロをノルマンディー公に封じた。ロロは洗礼を受け、単純王の娘ジゼルを妻とした。
  • 同じ911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世(東フランク王)が没してカロリング家の世襲が絶えると、ロタリンギア(当時のロレーヌの呼び名)には親西フランクの派閥が形成され、単純王はロタリンギア貴族の臣従を受け、ロタリンギア王となった。
  • しかし、ロタリンギアへの執着と部下の処遇の不公平などから、単純王はロレーヌ公ジルベール(のちハインリヒ1世を支持)と不仲になり、西フランク王国の諸侯にも嫌われた。そして922年に叛かれて廃位され、その反乱を指揮したロベール(ウードの弟)が王に選ばれ(ロベール1世(西フランク王))、単純王はロレーヌへ逃げた。
  • 923年、単純王はノルマンの兵を率いてロベール1世(西フランク王)とソワソンで戦って討ち取ったものの、ロベールの息子ユーグ大公と娘婿のラウールとに敗れ、ヴェルマンドワ伯エルベール2世(Herbert II)にティエリ城(Château-Thierry)へ囚われ、翌年ペロンヌ城の塔に移された。
  • ラウールが西フランク王になった(ラウール(西フランク王))。2番目の妻のエドギフはのちのルイ4世(西フランク王国)を連れ、イングランドの実家へ亡命した。ロタリンギアは925年、ハインリヒ1世(ドイツ王)がドイツに取り戻した。
  • 単純王は929年10月7日獄死し、ペロンヌ城に近いサン=フルシー教会(l’église Saint-Fursy)に埋葬された。

参考 Wikipedia

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