徐光啓
徐光啓 ©Public Domain

徐光啓


徐光啓( A.D.1562〜A.D.1633)

明末の学者。マテオ・リッチの教えを受け、キリスト教に入信。古代ギリシアの数学者・エウクレイデスの『幾何学原本』を漢訳。また、『農政全書』60巻を著し、改暦にも携わる。

徐光啓

西洋の学問を幅広く吸収し展開

明末の学者。マテオ・リッチの教えを受け、キリスト教に入信。古代ギリシアの数学者・エウクレイデスの『幾何学原本』を漢訳。また、『農政全書』60巻を著し、改暦にも携わる。

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アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

明後期の社会と文化
宣教師の来航

明末の科学技術書の出版や儒教経典の実証的研究がおこなわれた背景には、当時中国へ来航したマテオ・リッチをはじめとするイエズス会宣教師がもたらした西洋の知識と技術とがあった。

インド航海路の開拓後、ポルトガル商人はさかんに東アジアへ来航した。彼らは1517年、広東付近に来航して以降、明朝と交易を開き、1557年にはマカオに居住権をえた。アジアへ向かうポルトガル商船には、商人ばかりでなくキリスト教宣教師も乗船していた。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革がおこなわれていたが、カトリック側では対抗宗教改革(反宗教改革)運動のひとつとしてイエズス会(ジェズイット教団)が結成され(1534)、その重要な活動のひとつが海外布教であった。イエズス会の創立者のひとりであるフランシスコ・ザビエル(シャヴィエル 1506〜1552)は、はじめゴア・セイロン・マレー半島などで布教活動をおこない、その後、1549年日本に初めてキリスト教を伝えた。さらに彼は布教のため中国へ渡ったが、1552年、広州港外の上川島じょうせんとうで病死した。

こののちイエズス会宣教師が中国へ来航し、積極的に布教活動をおこなうが、中国で最初に布教活動を認められたのは、マテオ・リッチ(1552〜1610)であった。彼はイタリアに生まれ、イエズス会宣教師として、はじめインドのゴアで布教活動をしていたが、1582年マカオに来航し、中国語を学習しながら江南各地で伝道した。中国人にキリスト教を理解してもらうために、カトリックの競技を漢文に翻訳した『天主実義てんしゅじつぎ』を著して布教した。

しかし彼は、布教に成功し信者を増やすためには、なによりも皇帝の許可をえることが重要であると考え、1601年に北京に就き万暦帝に謁見し、自鳴鐘じめいしょう(ヨーロッパ式時計)などを献上して好意をもたれた。そして翌年北京での活動を認められ、中国最初の教会を北京に建設した。リッチは北京での布教の際、まず宮廷内部への接近と、官僚層の信者の獲得をねらっていた。そこで彼は中国の伝統文化との衝突をさけ、官僚たちが来ていた儒学者の服装をまとい、中国語を習得して古典を学び、西洋学術である天文学・数学・地理学・砲術などの紹介・翻訳に努めた。こうした努力の結果、徐光啓じょこうけい(1562〜1633)・李之藻りしそうをはじめとする士大夫層の信者をも獲得した。

このようにマリオ・リッチは宮廷や官僚に接近するために、みずから中国語と中国文化を習得する一方で、中国人が興味を示した西洋学術を積極的に紹介した。彼は徐光啓の協力をえてエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学を説いた。『幾何原本』を刊行し、さらに中国最初の世界地図である『坤輿万国全図こんよばんこくぜんず』を李之藻の協力をへて刊行し、当時の中国の人々に初めて世界の大きさを知らせた。この『坤輿万国全図こんよばんこくせんず』は日本にも伝えられ、世界観を一変させるきっかけとなった。

明後期の社会と文化 – 世界の歴史まっぷ

清代の中国と隣接諸地域

清代の社会経済と文化
宣教師の来航

マテオ・リッチをはじめとして、明末から清初にかけて多くのイエズス会宣教師が中国に来航した。1622年に中国へ来たドイツ人宣教師アダム・シャール湯若望とうじゃくぼう 1591〜1666)は、1627年北京で布教活動をおこない、崇禎帝すうていていに召され、徐光啓とともに西洋の暦法によって新たに『崇禎暦書』を作成した。また当時明は清軍の侵略をうけていたときであり、シャールは大砲の鋳造にも従事した。明が滅んで清が中国を支配すると、シャールはひきつづき清に仕え、『崇禎暦書』を改訂して、新たに『時憲暦じけんれき』を作成し、さらに順治帝のとき欽天監正きんてんかんせい(天文台長官)に任じられた。

清代の社会経済と文化 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

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