カール5世(神聖ローマ皇帝)
カール5世(神聖ローマ皇帝)(ヤーコプ・ザイゼネッガー画/美術史美術館蔵) ©Public Domain

カール5世(神聖ローマ皇帝)


カール5世(神聖ローマ皇帝)( A.D.1500〜A.D.1558)
スペインハプスブルク朝初代王(カルロス1世(在位:1516年〜1556年))、神聖ローマ帝国ハプスブルク朝第4代皇帝(在位:1519年〜1556年)、カスティーリャ王、レオン王、アラゴン王、ナバラ王、バレンシア王など70の称号をもち、領土は南北アメリカをふくめた空前の一大帝国を統治。

カール5世(神聖ローマ皇帝)

70もの称号をもち空前の一大帝国を統治

「自らの経験不足や人を信じるあまり、また無鉄砲な振る舞いから、わが治世では多くの過ちを犯してきた。だが私は、人を傷つけようと思ったことはないのだ」

1556年10月25日、スペイン王カルロス1世はブリュッセルの城で、涙を交えながら、退位の演説をおこなった。1516年、16歳でスペイン国王に即位。アラゴン王、カスティーリャ王、ナポリ王、ブルゴーニュ公、オーストリア大公など70以上の称号をもち、その領土は、ヨーロッパを越えて新大陸アメリカにまでおよんだ。3年後にはフランソワ1世(フランス王)と神聖ローマ皇帝の座を争い、選挙に勝って皇帝の座も手にした。選挙資金は大資本家フッガー家からの借金であり、いわば帝位を金で手に入れたのだった。

退位するまでの40年余り、カルロス1世(カール5世(神聖ローマ皇帝))は自らその領土に遠征して戦いに挑んだ。犬猿の仲であるフランソワ1世(フランス王)とは、イタリア支配やオスマン帝国との攻防をめぐってたびたび衝突した。ローマ教皇との駆け引きと彼の傭兵によるローマ略奪。ドイツ諸侯たちとの血なまぐさい闘争等々、世界はめまぐるしく動いた。また、カトリックの盟主として、新教徒(プロテスタント)を屈服させようとしたが、結局、ルター派を容認している。そして1556年、自分の息子フェリペ王子にスペインと中南米、シチリア・ナポリ、ネーデルラントの統治を任せ、弟フェルディナント1世にオーストリア統治、つまり皇帝権を譲った。その結果、ハプスブルク家の兄がスペイン、弟がオーストリアを統治するようになったのである。

ポルトガル出身のイサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン王妃とは夫婦仲もよく、王妃は跡継ぎのフェリペ2世(のちのフェリペ2世(スペイン王))やマリア王女(のちのマクシミリアン2世(神聖ローマ皇帝)皇后)など5人の子を産んだが、35歳で亡くなった。カール5世(神聖ローマ皇帝)は人のいい一面もあり、庶子を認知している。結婚前、ネーデルラントの町娘が生んだ女児が、のちにパルマ公に嫁いだマルゲリータ・ダウストリア(パルマ公妃)。また、1546年のレーゲンスブルク訪問の折、一夜を共にした美しい町娘バルバラ・フォン・ブロンベルクが生んだのがドン・フアン・デ・アウストリアだ。

晩年は若い頃からの美食と大食がたたって痛風に悩まされ、ユステの修道院で隠遁生活を送ったが、2年後、ここで静かに息を引き取った。スペイン王カルロス1世は、キリスト教精神に基づいて謹厳実直きんげんじっちょくに行きた中世最後の王といわれる。

略年表

  • 1500年 ベルギーに生まれる
  • 1506年 ネーデルラントの領主に
  • 1516年 スペイン王に即位
  • 1519年 神聖ローマ皇帝に選出
  • 1521年 フランソワ1世(フランス王)と対立
  • 1535年 チェニスを占領
  • 1544年 フランソワ1世(フランス王)と和約
  • 1555年 ネーデルラントに退く
  • 1556年 スペインの修道院に隠居
  • 1558年 ユステにて死去
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ルター派を弾圧するも最終的には承認

母フアナ(カスティーリャ女王)が精神を病んだため、カルロス1世としてスペイン王に即位したのが16歳。ついで祖父マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の死により19歳で神聖ローマ皇帝としても即位した。領土は南北アメリカを含め広大なものとなった。
さらに、イタリアをめぐってフランスと戦った(イタリア戦争)。折しもドイツでは、教会の腐敗に異を唱えた神学者のルターが教会から破門されていた。それでもルターは自説を曲げないため、カール5世はドイツ諸侯に呼びかけ、ヴォルムス帝国議会を開催、ルターを召喚した。
しかしここでも恭順しないルターを「ルターに一切の食べ物を与えるべからず」と命じて追放、さらにルター派諸侯を弾圧した。これが宗教戦争に発展したが、皇帝派の戦況は不利が続いた。結局、アウグスブルクの宗教和議がもたれ、ルター派は承認された。ただし個人の選択権ではなく領邦君主の選択という条件であった。
カール5世は翌年、帝位と王位をそれぞれ弟と息子に譲り、引退した。

カール5世のルター派禁止に、新教徒はプロテスト(抗議)した。このため、新教徒をプロテスタントと呼ぶようになった。
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カール5世とフランソワ1世

カール5世(神聖ローマ皇帝)とフランソワ1世(フランス王)はおたがいに、生涯を通じての最大の敵(ライバル)であった。16世紀の前半、複雑に推移するこの時代の国際関係は、カール対フランソワの、ハプスブルク家対フランス・ヴァロワ家の対立関係を基軸に展開する。神聖ローマ帝国の新皇帝の選挙で、ハプスブルク家のスペイン王カルロスに対し、いち早く集権化を進めるフランスの国王フランソワ1世が猛然と選挙戦を挑んだ。結果カルロスが勝利し、1519年、皇帝カール5世が誕生した。その後の両者の敵対関係は「決闘」が取りざたされるほどであった。しかし個人的感情のみならず、フランスはハプスブルク勢力に周囲を包囲されたことになり、その脅威がイタリア戦争の原因となった。2人の死闘がヨーロッパ世界を引きずり回したのである。

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近代ヨーロッパの成立

ヨーロッパ世界の拡大

マゼランと世界周航

世界周航を初めて成し遂げたのはフェルディナンド・マゼラン(マガリャンイス 1480頃〜1521)である。ポルトガル人のマゼランは、ポルトガル王の不興をかい、スペインに移り、彼の世界周航計画について、スペイン王カルロス1世(のちのカール5世(神聖ローマ皇帝))の援助をうけることになった。1519年5隻の船、280人の乗組員でスペインのサン・ルカル港を出港、ラプラタ河口から南アメリカの東岸を南下し、ついに3隻の船でマゼラン海峡を越え、広い海にでた。彼が太平洋(平穏な海)と命名したこの海の苦しい単調な航海を続け、1521年戦隊はフィリピンに到達した。

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宗教改革

ルターの改革

ドイツの多くの都市の市民・諸侯がルターを支持した。1521年カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)はルターをヴォルムス帝国議会に召喚して、彼に自説の撤回を迫ったが拒否された。ルターは法律の保護外におかれたが、フリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)によってヴァルトブルク城にかくまわれ、ここから改革運動を指導した。ここでルターは近代ドイツ語に大きな影響を与えた聖書のドイツ語訳を完成した。

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イギリス国教会の成立

ヘンリー8世(イングランド王)(位1509〜1547)は伝統の信仰に忠実で、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられていた。彼は、兄の死後その妻であったスペインのアラゴン王家出身のキャサリンを妃に迎えたが嫡子に恵まれず、彼女と離婚し、宮廷の若い侍女アン・ブーリンとの結婚を望んだ。しかし、スペイン国王兼ドイツ皇帝カール5世(神聖ローマ皇帝)の伯母でもあるキャサリンとの結婚の解消は、教皇の承認をえられなかった。

結婚問題について別の解決を求めたヘンリー8世(イングランド王)は、ケンブリッジ大学教授トマス・クランマーの示唆により、キャサリンとの結婚を無効とし、クランマーをカンタベリ大司教にし、アンとの結婚の合法性を認めさせた。これに対し教皇が破門をもって応えると、1534年国王至上法(首長法)を発布し、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とし、ローマから分離したイギリス国教会を成立させた。

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

イタリア戦争

ルネサンス文化が開花した15〜16世紀のイタリアでは、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、教皇領など中小の諸国家が相互にその勢力を維持、拡大を求め抗争を続けていた。この抗争にはイタリアでの覇権をめぐるフランス(ヴァロワ家)とハプスブルク家の対立が加わり、イタリア地方を舞台に絶えざる戦闘や複雑な外交的駆け引きがくりかえされた。ナポリ王位継承権を主張するフランスのイタリア侵入は、シャルル8世(フランス王)(位1483〜1498)に始まり(1494)、次王ルイ12世(フランス王)(位1498〜1515)、フランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)とひきつがれ、フランスはミラノ公国を手中におさめた。スペイン王カルロス1世が皇帝選挙でカール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)となると、1521年イタリアに軍を進め、フランスとの間にイタリア戦争(1494〜1559)が展開された。フランスが敗れると、神聖ローマ軍によるローマの略奪がおこなわれ、教皇を屈服させた(ローマ劫掠)。フランソワ1世(フランス王)はその後もイギリスやオスマン帝国と結ぶなどしてイタリアでの戦争を続けた。しかし、1544年のクレピーの和約でイタリアにおけるドイツの優位が確立、フランソワの死(1547)とアンリ2世(フランス王)(位1547〜1559)とフェリペ2世(スペイン王)の間に結ばれたカトー・カンブレジ条約(1559)で、フランスはイタリア支配を断念し、イタリア戦争は終わりをつげた。

イタリア戦争 – 世界の歴史まっぷ

スペインの絶対王政の確立

しかし国内的には、スペインはカスティリャ・バレンシア・アラゴン・カタルーニャなど、地方分権的な性格がきわめて強く、国民国家としての統合は十分ではなかった。1516年には、オーストリアのハプスブルク家からでたカルロス1世(位1516〜1556)が即位し、ヴァロワ朝フランスのフランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)と争って神聖ローマ帝国にも選出された(カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556))彼の即位には、トレドなどの都市勢力が強く反対し、いわゆるコムネーロスの反乱(1520)をおこした。この反乱を鎮圧したカルロス1世は、議会の抵抗をも抑えて、スペインに絶対王政を確立した。

39.西ヨーロッパ〜ヨーロッパ主権国家体制の展開 スペイン絶対王政の確立 16世紀なかばのヨーロッパ詳細版
16世紀なかばのヨーロッパ詳細版 ©世界の歴史まっぷ

こうしてカルロス1世(スペイン王)は、ネーデルラントのブルゴーニュ公領をはじめ、ヨーロッパ大陸に広大な領土を獲得した。また、プロテスタント派諸侯の抵抗を排しながら、キリスト教世界の統一をねらってイタリア戦争( イタリア戦争)を続けた。しかし、1556年には王室財政が破綻したため、退位せざるをえなくなった。皇帝位は弟フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)(位1556〜1564)がつぎ、スペインの王位は息子のフェリペ2世(スペイン王)(位1556〜1598)に譲った。

スペイン絶対王政の確立 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

子女

1526年3月10日にセビリアの王宮で、ポルトガル王国の先王マヌエル1世(ポルトガル王)の王女で、互いに母方の従兄妹であるイサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴンと結婚した。前年の1525年にイサベルの兄ジョアン3世(ポルトガル王)とカール5世の妹カタリナ・デ・アウストリアが結婚するという二重結婚であった。また、カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアは1518年にマヌエル1世の3番目の王妃となったが、マヌエル1世とは1521年に死別していた。イサベルとの間には3男2女が生まれた。うち男子2人は夭逝した。

  • フェリペ2世(スペイン王)(1527年 – 1598年) – スペイン王及びポルトガル王
  • マリア・デ・アブスブルゴ(1528年 – 1603年) – マクシミリアン2世(神聖ローマ皇帝)の皇后
  • フェルナンド(1530年)
  • フアナ・デ・アウストリア(1535年 – 1573年) – ジョアン3世(ポルトガル王)の子ジョアン・マヌエル・デ・ポルトゥガル王太子の妃、セバスティアン1世(ポルトガル王)の母
  • フアン(1539年)

人の良い性格であったため、貴族身分の母から庶子が生まれれば認知し、商人・工人身分の母から子が生まれれば修道院などへ入れた。うち有名なのは、ヨハンナ・ファン・デル・ヘインストが儲けたマルゲリータ・ダウストリア(パルマ公妃)(1522年 – 1586年)と、バルバラ・フォン・ブロンベルクが儲けたレパント海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリア(1547年 – 1578年)である。事跡の不明な子女としては、祖父フェルナンド2世の後妻ジェルメーヌ・ド・フォワが儲けた女子イサベルと夭折した子、オルソリーナ・デッラ・ペンナが儲けた女子タデア、母不詳の女子フアナ、などが知られている。

参考 Wikipedia

エル・エスコリアール修道院

スペインの最盛期を築いたフェリペ2世(スペイン王)は、1557年、聖ラウレンティウス(ロレンソ)が殉教したとされる日にフランスに勝利し、聖人の加護に感謝して、父カール5世(神聖ローマ皇帝)の霊廟も兼ねたエル・エスコリアール修道院 の建設を開始した。王宮、霊廟、神学校、図書館なども併設された王立の複合施設として、装飾を排した外観をもつエレーラ様式で完成した。内部は美しいフレスコ画で装飾されている。世界遺産。
マドリードのエル・エスコリアール修道院と王室用地 – 世界の歴史まっぷ

同時代の人物

斎藤道三(?〜1556)

油売りの商人から美濃国の大名に成り上がった戦国武将の典型。「マムシ」の異名をもつ。尾張の織田信秀と抗争し、娘を彼の息子信長の嫁に出した。つまり信長の舅。

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