ブルボン朝 (1589〜1792, 1814〜1830)
フランス王国のヴァロワ朝につぐ王朝。1)フランス革命前の絶対王政期(1589〜1792)と、2)革命後の復古王政期(1814〜1830)に分かれる。ユグノー戦争中にヴァロワ朝が断切、ブルボン家のアンリ4世が即位してはじまる。アンリ4世はナントの王令によって宗教戦争に終止符を打ち、王国の統一を回復、王朝の基礎を築いた。ルイ13世時代のリシュリュー、ルイ14世未成年時代のジュール・マザランの2人の大宰相によって国王権力が確立された。
ブルボン朝
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
フランスにおける絶対王政の成立
長期の猖獗をきわめた宗教戦争で、分裂し荒廃しきったフランスの再建がアンリ4世(フランス王)の課題であった。ナントの王令は、カトリックの優位を認めたうえで、プロテスタントをも保護しようという妥協的なものであった。宗教改革が、この国ではついにこのような妥協的なかたちしかとりえなかったのは、かねてフランスのカトリック教会がローマ教皇からは独立的な傾向を持っていた(「ガリカニズム」という)ため、世俗利害との結びつきが強く、批判勢力としてのプロテスタンティズムがある程度以上は強くならなかったからである。
とはいえ、この結果、1685年に同王令が廃止されるまで、それまで異端として退けられたいたプロテスタントにカトリックとの共存の道が開かれることになり、フランスは国民の統合と経済再建にむかって歩みはじめる。中小貴族を官吏や軍人として積極的に登用して、大貴族による干渉を抑えたアンリ4世は、地方にも監察官を派遣して、中央集権化をはかった。またマクシミリアン・ド・ベテュヌ(1559〜1641)を財務官に起用して、財政改革と農業保護に当たらせた。
危機の時代の主権国家
ルイ14世の政治
アンリ4世(フランス王)の次に登位したルイ13世(フランス王)(位1610〜43)は、1624年以降、宰相にリシュリュー(1585〜1642)を登用して貴族やユグノーの勢力を抑え、絶対王政を確立した。また、財政改革を推進したものの、他方では1614年以後全国三部会を招集せず、専制的な政治を展開した。
1643年、その子ルイ14世(フランス王)(位1643〜1715)が幼少で即位すると、政治の実権を握ったイタリア生まれの宰相ジュール・マザラン(1602〜1661)は、貴族や高等法院による反乱(フロンドの乱 1648〜1653)を鎮圧して、王権をいっそう強化した。ここにフランス貴族は無力化し、王権の装飾物のような存在となった。
ルイ14世 その治世のもとでの宮廷や社交界から劇作家・思想家・芸術家が輩出し、古典主義文化の最盛期が現出した。
フロンドの乱
ブルボン家による絶対王政への貴族勢力の最後の反乱。ルイ14世の即位を機に、高等法院が反旗をひるがえし、宮廷は一時、パリを逃れたが、反乱は王党派のコンデ公によって鎮圧された。しかし、コンデ公はマザランと対立して失脚、コンデ軍がパリを支配したが、コンデ軍の背景にスペインが関与していることが判明したため、王党派がもりかえし、ついにパリを奪還、宮廷はパリにもどった。
ジュール・マザランの死後、みずから治世にあたるようになったルイ14世は「朕は国家なり」と称して王権神授説( 絶対王政とは)を唱え、典型的な専制君主となった。貴族を宮廷に仕えさせ、官僚制とヨーロッパ最大の常備軍を整えるなど、その権勢はまさしく頂点に達し、彼は「太陽王」と呼ばれるようにもなった。
王はまた、商工業の育成をはかって、王権の財政基盤を確立することをめざした。この目的のために、マザランに登用された財政総監ジャン=バティスト・コルベール(1619〜1683)を重用して、王立マニュファクチュア(工場制手工業)を設立するなど、フランス独特の重商主義政策を推進した。
コルベール主義
コルベールが推進した諸政策は「コルベール主義」の名のもとに、フランス重商主義の代名詞となっている。国内に金・銀を多く蓄えることが経済繁栄の道と考えた彼は、国内に鉱山のないフランスとしては、輸出を増やし、輸入を減らすことで金・銀を獲得すべきだとした。このため、特権を与えてゴブラン織りなどのマニュファクチュアを育成し、保護関税政策を展開した。そのほか、造船、海運の奨励にも務め、植民地の確保をめざしたが、軍事支出には反対であった。
しかし、1685年にナントの王令が廃止されると、商工業者の中心を占めていたユグノーたちがイギリスその他の国に亡命し、フランス経済は深刻な打撃をこうむった。17世紀のフランスは、全体に人口も増えず、経済発展の点ではイギリスに遅れをとったとされている。
もともと狩猟のためのロッジであったが、ルイ14世は1661年に親政を開始すると、この離宮の大々的な拡張工事を命じた。図は1668年、ほとんど完成した姿の宮殿。
他方、文化の面では、ルイ14世の時代は歴史上もっとも華やかな時代のひとつとなった。華美を好んだ彼は、ヴェルサイユに華麗な宮殿を造営(ヴェルサイユ宮殿)し、サロンをつくって文学や美術を奨励したため、フランスがヨーロッパの中心となり、フランス語がヨーロッパの上流社会の共通語となった。
ルイ14世(フランス王)は、財政改革や重商主義政策によってえた経済力を背景に、軍制改革をおこない、ヨーロッパ最強ともいわれる軍隊をつくりあげた。この軍事力によって、彼はスペイン領ネーデルラントやオランダへの侵略戦争をくわだてたが、イギリスなどが連携して対抗したため、大きな成果はなかった。
1700年には、孫のフェリペ5世(スペイン王)(位1700〜1724、1724〜1746)をスペイン王に即位させたことからスペイン継承戦争がおこった。この戦争で、イギリス・オーストリア、オランダなどが連合してフランスと対抗した。
1713年に締結されたユトレヒト条約では、フェリペ5世の王位は承認されたが、フランスとスペインの合同は認められなかった。逆にイギリスは、スペインからはジブラルタルなどを、フランスからは、カナダの一部やニューファンドランドなどを獲得することになった。そのうえ、こうしたたび重なる戦争でフランスの王室財政は、ルイ14世の末期にはしだいに悪化していった。また1714年には、ルイ14世と神聖ローマ皇帝との間でラシュタット条約が結ばれた。
ヨーロッパ諸国の海外進出
遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)
17世紀後半になると、コルベール体制を整えたフランスも、アジアへの進出を目指すようになった。フランスでは、1604年にアンリ4世(フランス王)のもとでフランス東インド会社が創設されたが、実質的な活動ができないままにいったん消滅したのち、1664年に再建された。この会社は、1674年に土地の支配者からポンディシェリを買収し、同年獲得したシャンデルナゴルとともに、フランスのインド経営の核とした。こうして、ポルトガル、オランダに遅れてアジア進出を開始した英・仏両国は、香料諸島には入りこめなかったが、インド亜大陸をおもな拠点としてアジア経営を展開した。
遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着) – 世界の歴史まっぷ
プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営
ヨーロッパで七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政)が始まると、戦火はアジアにも広がった。1757年、カルカッタの北で書記ロバート・クライヴの率いるイギリス東インド会社がフランス・地方支配者(ベンガル州総督)連合軍を破り(プラッシーの戦い)、ベンガルにおけるフランス勢力は決定的な打撃をうけた。また、この戦いによって、ムガル帝国のベンガル州総督が完全にイギリスの傀儡になってしまったことで、イギリスのインド支配の基礎が固まった。敗れたフランスは、この戦いで本国の国家財政がしだいに傾き、革命の遠因とさえなった。
プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営 – 世界の歴史まっぷ
奴隷制プランテーションと奴隷貿易
16世紀をつうじてスペインとポルトガルは、アジアばかりか西半球をも2分して支配した。これに対して、この地域でもイギリス・オランダ・フランスなどは、私拿捕などを利用して異議を唱えることになる。ポルトガル領となったブラジルで、すでに16世紀からアフリカ人奴隷による砂糖の生産がおこなわれた。西アフリカに多くの拠点をもったポルトガルにとっては、奴隷貿易そのものも重要な収入源となった。
イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国では、17世紀中ごろ以降、アジアなどから輸入された茶やコーヒーの消費が急速に広がった。これに刺激されて、カリブ海の英・仏領植民地を中心として砂糖の生産が激増したほか、北アメリカの植民地でもタバコや藍・綿花などの商品作物が大量に栽培されるようになった。
これらの生産には、はじめ先住民(インディオ)が使われていたが、彼らはアフリカやヨーロッパから新たにもちこまれた伝染病に抵抗力がなかったうえ、重労働を課せられたために、たちまちその人口が激減し、多くの部族が消滅してしまった。年季奉公人のかたちをとったヨーロッパからの白人の移民も、労働力としては人数に限界があった。
このため、砂糖プランテーションを中心に黒人奴隷が使われるようになり、その大量供給が不可欠となった。ヨーロッパ各国がきそって西アフリカに拠点を求め、奴隷貿易に乗りだしたのは、このためである。
英・仏の植民地戦争
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イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウンの建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタンや毛織物工業の失業者などが移民した。彼らの多くは、先に述べた年季奉公人としての移民であった。ついで、砂糖生産によってバルバドス島などのカリブ海植民地も急速に発達したが、ここでは黒人奴隷が主な労働力となった。1655年にオリバー・クロムウェルがスペインから奪ったジャマイカは、まもなく世界最大の砂糖生産地となった。
フランスも17世紀初めから北米に進出し、ケベックを中心にカナダを支配し、ミシシッピ川流域にもルイジアナ植民地を設立した。
18世紀は、こうしてカリブ海や北アメリカでも、英・仏両国の対抗関係が続いた。スペイン継承戦争後のユトレヒト条約(1713)( ルイ14世の政治)では、イギリスはフランスからニューファンドランドなどを、スペインからは同国の植民地への奴隷供給権(アシエント特権)などを獲得した。さらに、1739年からイギリスとスペインの間におこったジェンキンズの耳の戦争は、翌1740年からオーストリア継承戦争(1740〜1748)となり、イギリスはオーストリアと組んでフランス・スペインと対抗した。
ジェンキンズの耳の戦争
スペイン継承戦争後のユトレヒト条約で、イギリスは毎年1回だけ特許船をスペイン領アメリカに送りこみ、通商をする権利が認められていた。しかし、この権利が濫用されていると主張するスペインとの間でいざこざが絶えなかった。1738年、イギリス船の船長ジェンキンズが、会議において、かつて西インド諸島から帰港する際にスペイン官憲の臨検をうけ、片耳を切り落とされたと証言したことが一因となって、翌1739年から戦争が始まった。イギリスでは、この戦争を「ジェンキンズの耳の戦争」と呼んだ。宣伝合戦の激しかった18世紀ヨーロッパの国際関係を象徴する事件である。
オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして1756年に開始した七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政, プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営)も、植民地では英・仏の対立が中心となった。
この戦争後のパリ条約(1763)では、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナ、フロリダなどをえた。18世紀のフランスは、ガドループなどカリブ海の砂糖植民地をも発達させ、貿易もイギリスに劣らないほど発展していたが、この条約によって北アメリカ大陸での植民地をすべて失った。逆にイギリスは、広大な帝国を完成し、カリブ海の西インド諸島とアメリカ大陸の13植民地を中心としたこの帝国は、インドを核とする19世紀のそれに対して「第一帝国」または「旧帝国」などと呼ぶ。またこの帝国は、重商主義政策を推進するためにつくられたという意味で「重商主義帝国」という場合もある。
イギリスのアメリカ植民地のなかでは、砂糖キビの栽培されたカリブ海とタバコを産出した大陸南部植民地、すなわちヴァージニアとメリーランドがイギリスにとって重要と考えられた(綿花が重要な意味をもつようになるのは、もっとのちのことである)。砂糖やタバコをはじめとする換金作物は、プランテーションの形態をとって、いずれも黒人奴隷の労働力に依存しながら大規模に生産された。
これに対して、北部のニューイングランドはこうした換金作物に恵まれなかったために、イギリスからの干渉が少なく、かえってヨーマン的な自立的農民の自由な労働による生産がおこなわれた。この結果、まもなくここでは造船業や商業がさかんになり、北米中部植民地の穀物とカリブ海の砂糖やラム酒の交易などをおこなうようになった。材料に恵まれた造船業も18世紀中ごろには大発展をとげ、イギリス本国でもニューイングランド製の船舶が多くみられるようになった。
しかし、植民地はまたイギリス工業製品の市場ともみなされていた。事実、大量の生活に密着した工業製品(各種の織物、鍋や釘、農機具、陶器、衣類、聖書などにいたるまでの製品)、および茶などのアジアの商品がイギリス本国から大量にもたらされた。イギリスの議会や政府は、本国企業のためにこの市場を守ろうとして、鉄法、帽子法、糖蜜法など植民地の工業発展を抑圧する政策を展開した。これらの政策は、航海法の体系とともにイギリス重商主義の根幹をなしたとみられているが、ニューイングランドの工業発展を阻止する効果はあまりなかった。
歴代国王
ブルボン朝
名 | 在位開始 | 在位終了 | 先代との関係 |
---|---|---|---|
アンリ4世(フランス王)(良王アンリ・緑の情夫)(Henri IV, le Bon Roi Henri, le Vert-Galant) | 1589年8月2日 | 1610年5月14日 | ルイ9世の男系10世孫,フランソワ1世の姪の子,フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世の再従兄弟であり、最初の結婚により義兄弟 |
ルイ13世(フランス王)(公正王)(Louis XIII le Juste) | 1610年5月14日 | 1643年5月14日 | アンリ4世の子 |
ルイ14世(フランス王)(大王・太陽王)(Louis XIV le Grand, le Roi Soleil) | 1643年5月14日 | 1715年9月1日 | ルイ13世の子 |
ルイ15世(フランス王)(最愛王)(Louis XV le Bien-Aimé) | 1715年9月1日 | 1774年5月10日 | ルイ14世の曾孫 |
ルイ16世(フランス王)(末王)(Louis XVI le Dernier) | 1774年5月10日 | 1792年8月10日 | ルイ15世の孫 |
第一共和政 1792年 – 1804年
ボナパルト朝・第一帝政 1804年 – 1814年
ナポレオン1世(1804年 – 1814年)
復古ブルボン朝
名 | 在位開始 | 在位終了 | 先代との関係 |
---|---|---|---|
ルイ18世(フランス王) | 1814年5月2日 | 1815年3月13日 | ルイ16世の弟 |
ボナパルト朝・第一帝政再興(百日天下)1815年
ナポレオン1世(1815年)
復古ブルボン朝
名 | 在位開始 | 在位終了 | 先代との関係 |
---|---|---|---|
ルイ18世(フランス王) | 1815年7月7日 | 1824年9月16日 | |
シャルル10世(フランス王) | 1824年9月16日 | 1830年8月2日 | ルイ16世・ルイ18世の弟 |