レオポルト1世(神聖ローマ皇帝)
レオポルト1世(神聖ローマ皇帝)(ベンジャミン・フォン・ブロック画/美術史美術館蔵)©Public Domain

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レオポルト1世(神聖ローマ皇帝)( A.D.1640〜A.D.1705)

  • ハンガリー王(在位1655年〜1705年)ハプスブルク帝国
  • ボヘミア王(在位1657年〜1705年)ハプスブルク帝国
  • オーストリア大公(在位1657年〜1705年)ハプスブルク帝国
  • 神聖ローマ帝国ハプスブルク朝皇帝(在位1658年〜705年)

レオポルト1世(神聖ローマ皇帝)

失態から一転、大国復興へ奮闘した王

オーストリア系ハプスブルク家の血を引く。本来なら聖職者になるはずが、兄(フェルディナント4世(ローマ王))の急死により運命の激変に見舞われ、まずハンガリー王とボヘミア王に即位、ついでオーストリア公、さらには神聖ローマ帝国の帝位に就いた。宗教教育しか受けておらず、性格も内省的かつ消極的だったことから、自らの意志で決断をすることができず、その政策がどういう結果をもたらすかまったく想像できないなど、明らかに政治能力に欠けていた。

オスマン帝国がウィーンに迫ると、レオポルトは防御体制を固めるどころか、真っ先に逃げ出してしまった。一国の君主にあるまじき行為だが、それからのレオポルトは汚名返上とばかりに、外征や外交に力を入れた。その結果、オスマン帝国からハンガリーとトランシルヴェニアを奪い返し、長男のヨーゼフ1世をハンガリー王位に就けるなど、大国復興への足がかりを築くことができた。

皇帝の食卓:レオポルトは敬虔けいけんなカトリック信者で、精進しょうじん日の決まりなども厳格に守った。精進日には肉食はせず、その日の昼食と夕食は魚か穀類でつくった団子、菓子などを主食とした。

略年表

  • 1640年 オーストリアに生まれる
  • 1655年 ハンガリー王に即位
  • 1658年 神聖ローマ抵抗皇帝に即位
  • 1660年 オスマン帝国と対立
  • 1670年 ハンガリーに絶対主義政策(1681年解除)
  • 1683年 第2次ウィーン包囲
  • 1684年 ヴェネツィアと同盟締結
  • 1701年 スペイン継承戦争勃発
  • 1705年 オーストリアで死去
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ビジュアル 世界史1000人(下巻)

子女

皇后:マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ 
(フェリペ4世(スペイン王)の王女。母方の従姉妹で姪。)

  • フェルディナント・ヴェンツェル(1667年 – 1668年)
  • マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ(1669年 – 1692年) – マクシミリアン2世エマヌエル(バイエルン選帝侯)妃。ヨーゼフ・フェルディナント(アストゥリアス公)の母。
  • ヨーハン・レオポルト(1670年)
  • マリア・アンナ・アントニア(1672年)

皇后:クラウディア・フェリーツィタス・フォン・エスターライヒ=ティロル
(フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=ティロル(オーストリア大公)の娘で父方の又従妹。)

  • アンナ・マリア・ゾフィー(1674年)
  • マリア・ヨーゼファ・クレメンティーネ(1675年 – 1676年)

皇后:エレオノーレ・マグダレーネ
(フィリップ・ヴィルヘルム(プファルツ選帝侯)の娘。)

  • ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝)(1678年 – 1711年) – 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世
  • クリスティーネ(1679年)
  • マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1680-1741)(1680年 – 1741年) – 1725年より南ネーデルラント総督
  • レオポルト・ヨーゼフ(1682年 – 1684年)
  • マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1683-1754)(1683年 – 1754年) – ジョアン5世(ポルトガル王)妃
  • マリア・テレジア(1684年 – 1696年)
  • カール6世(神聖ローマ皇帝)(1685年 – 1740年) – 神聖ローマ皇帝カール6世。マリア・テレジアの父。
  • マリア・ヨーゼファ(1687年 – 1703年)
  • マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ(1689-1743)(1689年 – 1743年)
  • マリア・マルガレーテ(1690年 – 1691年)

参考 Wikipedia

同時代の人物

浅野長矩(1667〜1701)

播磨赤穂城主。江戸城本丸の松の廊下で吉良義央に斬りつけたことから、即日切腹・改易の処分を受けた。その遺臣たちは翌年仇討ちと称して吉良義央を殺害した。

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