ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)
カノッサの屈辱(グレゴリウス7世・ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)・トスカナ女伯マティルダ) ©Public Domain

ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)


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ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)( A.D.1050〜A.D.1106)

ローマ王(在位:1053〜1106)、イタリア王(在位:1080〜1106)、ローマ皇帝(在位:1084〜1106)。神聖ローマ帝国ザーリアー朝第3代皇帝、フランケン公(在位:1056〜1076)、バイエルン公(在位:1077〜1096)。父王を継ぎ、6歳で神聖ローマ皇帝に即位。グレゴリウス7世(ローマ教皇)との叙任権闘争で破門され政治的支持を失う。1077年、イタリアのカノッサ城で教皇に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。

ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)

聖職叙任権闘争で敗れカノッサで屈服

父王を継ぎ、6歳で神聖ローマ皇帝に即位。摂政期間をおいて、15歳で親政を行った。かねてからの聖職者の反乱を抑えた矢先、グレゴリウス7世(ローマ教皇)が、聖職叙任権を宣言した。ハインリヒ4世はこれに反発、「叙任権闘争」を開始した。

ドイツ司教会議で教皇廃位を決議したが、それに対し、教皇から「破門」の返礼を受けた。教会共同体からの破門は社会的抹殺を意味し、1年以内に破門を解かれない皇帝は廃位とういう決議が、反皇帝派諸侯によってなされた。苦汁の決断をしたハインリヒ4世は、教皇の滞在するイタリアのカノッサ城の前で、雪の中を3日間裸足で謝罪し続け、ようやく破門を解除された。

しかし怒りの鎮まらないハインリヒ4世は、4年後、クレメンス3世を新教皇に擁立、ローマに攻め込み、グレゴリウス7世に復讐を果たした。

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強行に破門され、謝罪を強いられた

教皇グレゴリウス7世が、聖職売買や皇帝の司祭叙階を禁じた「教皇勅書」を発布すると、皇帝ハインリヒ4世は激怒し、教皇の罷免と廃位を要求。一方の教皇は彼を破門した。1077年、ハインリヒ4世は教皇の滞在先カノッサに行き、雪の中に裸足でたたずみ、謝罪と恭順を誓った(カノッサの屈辱)。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立

教会の権威

クリューニーの改革運動(修道院改革)は、同派の支修道院をつうじて急速にヨーロッパ各地へと波及した。その中でレオ9世(ローマ教皇)は改革派の人物を集めて枢機卿とし、積極的な教皇庁改革(グレゴリウス改革)に乗り出した。その結果、1059年枢機卿会議による教皇選出規定が決定され、教皇選挙への皇帝権の介入は排除された。さらにグレゴリウス7世(ローマ教皇)は1075年の「教皇教書」により、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言したが、それは教会政策を帝国統治の基本にするドイツ王(ザーリアー朝)ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)との決定的な対立を引き起こすことになった。いわゆるカノッサ事件(1077)である。

カノッサ事件の顛末

グレゴリウス7世(ローマ教皇)は、書簡を送って国王ハインリヒ4世の司教叙任を叱責し悔い改めを迫った。しかし、国王は逆に1076年1月ヴォルムスに聖俗諸侯を集め、司教の同意のもとに教皇の廃位を決議した。そこで、教皇は翌2月ハインリヒの廃位と破門を宣言すると、ドイツの司教たちは動揺し、世俗諸侯は再び国王に反旗をひるがえした。諸侯たちは集会を開き、波紋から1年後の1077年2月までに国王が波紋を解かれないかぎり、ハインリヒの王位を廃することを決定した。1076年の暮れ、孤立した国王は教皇に謝罪することを決意し、ローマに向かった。そして翌77年1月末、トスカナ女伯マティルダの仲介により、ハインリヒはカノッサ城に滞在する教皇に許しを請い、雪の城門で3日間素足のまま祈りと断食を続け、やっと破門を解かれた。これが、いわゆる「カノッサの屈辱」として知られる事件である。

カノッサ事件は、教皇権の優越を示すものではあったが、ドイツに限れば国王は再び勢力を回復し、反対派の諸侯を抑えることになった。教皇は再び国王を破門したが効果はなく、その死後も教皇と皇帝・国王の対立は続いた。

参考 詳説世界史研究

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