稲葉山城の戦い
- 戦争:攻城戦
- 年月日:1567(永禄10)年8月1日〜15日(〜9月6日?)
- 場所:美濃国稲葉山城(岐阜城)
- 結果:織田軍の勝利、斎藤氏滅亡
- 交戦勢力
稲葉山城の戦い
稲葉山城の戦い
戦争 | 攻城戦 | |
年月日 | 1567(永禄10)年8月1日〜15日(〜9月6日?) | |
場所 | 美濃国稲葉山城(岐阜城) | |
結果 | 織田軍の勝利、斎藤氏滅亡 | |
交戦勢力 | 織田軍 | 齊藤軍 |
織田信長 柴田勝家 豊臣秀吉 安藤守就 丹羽長秀 稲葉一鉄 佐久間信盛 氏家卜全 | 斎藤龍興 日根野弘就 丸茂兵庫助 |
幕藩体制の確立
織豊政権
織田信長の統一事業
戦国大名のなかで全国統ーの願望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長(1534〜82)であった。信長は尾張守護代の家臣であった織田信秀(1511〜52?)の子で、1555(弘治元)年に守護代を滅ぼしてその居城清洲(須)城を奪い、まもなく尾張を統ーした。ついで1560(永禄3)年尾張に侵入してきた今川義元(1519〜60)を桶狭間の戦いで破り、1567(永禄10)年には、美濃の斎藤氏を滅ぼして肥沃な濃尾平野を支配下においた。信長は、斎藤氏の居城であった美濃の稲葉山城を岐阜城と改名してここに移り、「天下布武」(天下に武を布くす)の印判を使用して、天下を自分の武力によって統ーする意志を明らかにした。
参考
尾張統ーに成功し、また、東からの脅威だった今川義元を討ち取ったことで織田信長はいよいよ美濃への侵攻を開始する。しかし、斎藤義龍の死後、跡を継いだ斎藤龍興は手ごわい相手だった。
墨俣城を築く
1560年(永禄3)の桶狭間の戦いで、当面する最大の脅威であった今川義元を倒した織田信長は、三河で今川氏から自立する動きをみせはじめた徳川家康と手を結び、東を安定させた。こうして、いよいよ美濃攻めにかかることとなった。美濃では、1561年(永禄4)5月11日に、稲業山城主だった斎藤義龍が没し、跡を子の斎藤龍興が継いだ。龍興は14歳の若さだったので、信長としては、美濃攻めの好機と考え、早くも5月13日に兵を動かしている。これが森辺の戦いといわれる、両者の最初の本格的衝突であった。しかし、斎藤氏の家臣団の結束は固く、しばらく一進ー退の状況が続いた。そうした状況の中、信長は1563年(永禄6)、城をそれまでの清須から約10km北東にあたる小牧山に移し、さらに、濃尾国境付近に拠点となる砦作りも命じている。これが墨俣城で、短期間にできたということで、墨俣一夜城の名で知られている。そのころ、まだ木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉が、木曽川ベりで水運に従事していた川並衆(川筋衆とも)とよばれる蜂須賀正勝や前野長康らを使って、数日かけて築きあげ、これが美濃攻めの拠点となった。完成は1566年(永禄9)7月といわれている。
「西美濃三人衆」を味方につける
信長は、墨俣城築城とあわせ、斎藤氏の家臣に対する切り崩し工作も並行して進めていた。信長が目をつけたのは、「西美濃三人衆」といわれる龍輿の重臣で、稲葉ー鉄・氏家卜全・安藤守就の3 人である。このうち、安藤守就の娘が竹中重治に嫁いでおり、その重治が守就とともに、龍興を諌めようと、わずか1 人で稲葉山城を一時的に乗っ取るということがあった。信長としては、斎藤氏の家臣団の団結に亀裂が生じはじめたと判断した上での行動である。案の定、信長の誘いに乗って、「西美濃三人衆」は内応(寝返り)を約束してきたのである。信長はその機会を逃さなかった。しかも、驚くべき謀略的手段も使っている。信長は、兵を召集するにあたって、「三河方面に出陣する」と触れていたのである。当然、その情報は龍興の耳に入ることを計算に入れてのことであった。1567年(永禄10) 8月1日、「三河方面に出陣する」といって集めた兵を、信長は美濃に向かわせたのである。龍興の方は、まさか信長が攻めてくることはないだろう」と安心しきって、家臣たちは領国内の支城に散らばっていたため、防戦態勢は遅れた。
1日の戦いで稲葉山城を落としたというのは本当か
従来、このときの戦いの経過については、8月18に稲葉山城下に攻めこんだ信長の軍勢が、城の南西に位置する瑞龍寺山を占拠し、城下の井口に放火したうえで、翌2日から稲葉山城を包囲し、結局、龍典は8月15日、たった1日の戦いで降伏開城したといわれてきた。しかし、2日から包囲したことが明らかなので、戦いはたった1日ではなかったし、開城した日についても通説とは異なる見解も出されている。たとえば、郷士史家の横山住雄氏は『織田信長の尾張時代』で、従来いわれてる8月15日には、信長はまだ伊勢長島一向一揆攻めの最中で、両面作戦は無理ではないかとする。さらに岐阜市の瑞龍寺旧蔵「瑞龍寺紫衣輪番世代蝶写」の永禄十年条に、「九月、織田上総乱入」とあるのと、関市平の龍福寺の「年代記」の永禄十年条に、「信長人濃九月六日」とあるのを典拠として、9月6日に開城したのではないかととらえている。その可能性はありそうである。龍興は一命を助けられ、伊勢長島に落ちていき、ここに、戦国大名斎藤氏は3代で滅びた。信長は、城を小牧山から稲葉山に移すとともに、それまで、城は稲葉城、城下は井口といっていたのを、両方とも「岐阜」と改名している。当時、禅僧たち知識人の間で、井口が岐阜・岐山・岐陽などといわれていたからである。また、その年11月からは「天下布武」の4 文字を刻んだ印判を使いはじめている。
参考 日本の城 改訂版 7号