ルイ18世(フランス王)
ルイ18世(フランス王)(ロバート・ルフェーヴル画/ヴェルサイユ宮殿蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ルイ18世(フランス王)


ナポレオン1世

ナポレオン1世

シャルル10世(フランス王)

ルイ18世(フランス王) Louis XVIII( A.D.1755〜A.D.1824)

復古王政フランス王(在位1814~15、15~24)。間はナポレオン1世の「百日天下」。ルイ16世(フランス王)の弟。憲章という名称を使った憲法を制定し、市民の選挙権を大幅に制限、反動的政治を進めた。

ルイ18世(フランス王)

フランス王(在位1814~15、15~24)。ルイ15世の孫、ルイ16世の弟。初めプロバンス伯。1771年サボア(サボイア)公女マリ・ジョゼフィーヌと結婚。ルイ16世による高等法院の追放解除や財務総監C.カロンヌの改革案に反対し、全国三部会では第三身分の代議員数倍加を主張したため、反宮廷派の嫌疑をかけられたこともあるが、フランス革命勃発後、91年6月20日ルイ16世のバレンヌ逃亡の日、ベルギーに脱出。93年ルイ16世の刑死により摂政、95年甥のルイ17世の死により国王の称号を得、亡命貴族と連携し王政の復古に努力したが、革命軍の勝利とナポレオン1世登場以後、亡命先を転々とした。1814年3月連合軍がパリに入城してナポレオンがエルバ島に追放されると、イギリスとC.タレーランの支持を得て帰国し(第1次王政復古)、同年6月神聖不可侵の世襲王権を規定するとともに、法の前の平等、所有権の不可侵、基本的人権を認めた憲法を制定。15年ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーのヘントに逃亡、ワーテルローの会戦後、第2次王政復古を果した。同年8月の王政復古後最初の下院選挙ではユルトラ(極右王党派)が圧勝したが、翌年ユルトラ議会は解散、新たな選挙で立憲王党派が多数派となり、E.ドカーズ内閣のもとで旧貴族とブルジョアの妥協のうえに立つ安定した政治が行われた。しかし、20年のベリー公暗殺事件はユルトラに反攻の機会を与え、21年ユルトラのビレール伯が首相となり、国王は反動支配のなかで24年死去した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

ナポレオン帝国の崩壊

イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、新しい対仏大同盟が結成された。ナポレオンは敵が結束する前にたたくという彼の得意の戦略を用いようとしたが、今度は遅きに失した。1813年10月ナポレオン軍と新しい同盟軍はライプチヒで対戦し、同盟軍がフランス軍を決定的に撃ち破った(諸国民の戦い)。このためナポレオンはフランスに後退した。フランスに侵入した同盟軍に対し、ナポレオンは何度か優れた戦術で戦った。しかし敗色はこく、1814年4月同盟軍はパリに入城した。彼は息子に譲位しようとしたが、認められなかった。同盟軍は彼に年金を与え、エルバ島に隠退させた。ルイ16世(フランス王)の弟がフランスに帰り、ルイ18世(位1814〜24)として即位し、ブルボン朝の王政が復活した(王政復古)。

ルイ18世(フランス王)は、その反動的な態度で国民の間に多くの敵をつくりだした。また、戦後の平和の秩序を討議するためウィーンに集まった列国の代表の利害は対立し、議事はまとまらなかった(ウィーン会議)。こうした情勢を知ったナポレオンはエルバ島を脱出して、1815年3月フランス南部に上陸し、支持者を加え北上した。彼を捕らえるため派遣された軍も「皇帝」に従った。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリに入ったナポレオンは再び皇帝の地位についた。「百日天下」の始まりである。ナポレオンは時をかせぎ、軍隊を再編成し、戦争に備えた。諸国は第5回対仏大同盟(数え方によっては第7回)を結成して、復活したナポレオンに対決した。1815年ベルギーのブリュッセルの南、ワーテルローで、ナポレオンはイギリスのウェリントン Wellington (1769〜1852)(アーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)、プロイセンのブリュッヘル(ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル)と戦って敗れた(ワーテルローの戦い)。復活した皇帝の支配は短期間で終わった。投降して来たナポレオンを、イギリスは南大西洋の孤島セントヘレナに送った。ナポレオンはここで1821年にその生を終えた。

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ウィーン会議

タレーランの提唱した正義主義 legitimism は各国の君主に歓迎されて基本原則として採用され、ヨーロッパ各国の勢力均衡 balance of power がはかられた。ナポレオンのエルバ島脱出の知らせのあと、最終議定書(ウィーン議定書またはウィーン条約)がワーテルローの戦いの直前になって成立した。議定書では、フランス・スペイン・ナポリではブルボン家が復位するということが決められた。

七月革命とその影響

ブルボン家の復活したフランスではルイ18世(フランス王)(位1814〜24)が即位し、憲章という名称を使った憲法を制定し、市民の選挙権を大幅に制限し、反動的政治を進めた。

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