イギリス=トルコ通商条約 A.D.1838〜
オスマン帝国とイギリスとの間に結ばれた通商条約。イギリス側に領事裁判権を認め、オスマン帝国の関税自主権を奪う不平等なもので、オスマン帝国の西欧への経済的従属が進む契機となった。また、名目的にオスマン帝国の主権下にあったエジプトにも適用され、エジプトも打撃を受けた。
トルコ=イギリス通商条約
オスマン帝国とイギリスとの間に結ばれた通商条約。イギリス側に領事裁判権を認め、オスマン帝国の関税自主権を奪う不平等なもので、オスマン帝国の西欧への経済的従属が進む契機となった。また、名目的にオスマン帝国の主権下にあったエジプトにも適用され、エジプトも打撃を受けた。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
オスマン帝国の改革
経済の面では、イギリスはエジプト=トルコ戦争における支援とひきかえに、1838年にイギリス=トルコ通商条約を結び、帝国内の全領域における自由な通商権をえ、フランスなど他の西欧諸国もこれに続いた。この結果、領内にはヨーロッパの工業製品が蒸気船によって多量に流入し、土着工業は衰退し、食料や工業原料が輸出された。また、ヨーロッパの商人や領事と結びついた、アルメニア・ギリシア・ユダヤなどの少数民族商人が台頭し、対等な権利の擁護を主張した。また、政府は、1854年にクリミア戦争の費用捻出のために外債を受け入れたのを皮切りに、対外借入を重ねたため、歳出の多くが返済に充てられ、1875年には利子支払い不能を宣言して国家財政は破綻した。