タンジマート Tanzimat( A.D.1839〜A.D.1876)
アブデュル=メジト1世が開始した、ギュルハネ勅令からミドハト憲法の発布までの時期に行われたオスマン帝国の司法・行政・財政・軍事にわたる西欧化革命。帝国臣民の法の下での平等、生命・財産の保障など、西欧型の近代化を目指したが、保守派の抵抗により挫折。神権的なイスラーム国家から近代的法治国家への第一歩であった。
タンジマート
アブデュルメジト1世が開始した、オスマン帝国の司法・行政・財政・軍事にわたる改革。帝国臣民の法の下での平等、生命・財産の保障など、西欧型の近代化を目指したが、保守派の抵抗により十分な効果をあげられず挫折した。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国では、西欧の技術や政治制度の導入による近代化革命(タンジマート)が試みられた。インドでは、1857年の大反乱に代表される、ヒンドゥー教徒を中心とした反英闘争が展開された。中国でも、太平天国という巨大な民族運動が展開される一方、西欧の技術・産業の導入による富国強兵政策(洋務運動)が推進された。しかし、これらの反乱や革命運動がすべて失敗・挫折という結果に終わったように、アジアの「近代」は、長く険しい苦悩の道のりであった。
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
オスマン帝国の改革
39年の第2次エジプト=トルコ戦争では、イスタンブルにエジプト艦隊が迫り、急逝したマフムト2世のあとをついだアブデュル=メジト1世 Abdülmecid I (位1839〜61)は、英・仏の支援をえるために「ギュルハネ勅令」 Gülhane を発布し、より徹底した改革をおこなう姿勢を示した。一連の改革はタンジマートと呼ばれる。
改革は、地方では徴税請負権をもつアーヤーンなどの抵抗にあって実施されず、また改革の不徹底は、バルカンの非ムスリムの不満の種となり、ブルガリアなどで民族蜂起がおこった。ロシアは、帝国内のギリシア正教徒の保護を口実にクリミア戦争をおこし(1853)、オスマン帝国は英・仏らの支援をうけて勝利をえたが、パリ条約(1856)の締結にあたって、いっそうの改革を約束させられた。56年の改革勅令では、非ムスリム住民の諸権利が細かく保証され、土地法(1856)・民法(1869〜76)などの法制改革が進んだ。
経済の面では、イギリスはエジプト=トルコ戦争における支援とひきかえに、1838年にイギリス=トルコ通商条約を結び、帝国内の全領域における自由な通商権をえ、フランスなど他の西欧諸国もこれに続いた。この結果、領内にはヨーロッパの工業製品が蒸気船によって多量に流入し、土着工業は衰退し、食料や工業原料が輸出された。また、ヨーロッパの商人や領事と結びついた、アルメニア・ギリシア・ユダヤなどの少数民族商人が台頭し、対等な権利の擁護を主張した。また、政府は、1854年にクリミア戦争の費用捻出のために外債を受け入れたのを皮切りに、対外借入を重ねたため、歳出の多くが返済に充てられ、1875年には利子支払い不能を宣言して国家財政は破綻した。
このようなタンジマートは、西欧諸国による植民地化を推進し、スルタンの専制を招く結果となった。これに対し、タンジマート期に西欧の教育・思想を享受した官僚や知識人の間から専制を批判し、立憲制にもとづく改革を主張する運動がおこり、みずから「新オスマン人」と名乗った。スルタン・アブデュル=アジーズ Abdül Aziz (位1861〜76)はこれを弾圧したが、1876年のブルガリア4月蜂起をめぐって列強との緊張が高まると、スルタンは退位し、改革運動の指導者であったミドハト=パシャ Midhat Pasha (1822〜84)の起草した憲法が発布され(ミドハト憲法)、翌年議会が開催された。しかし、議会の先鋭化を危惧したスルタン・アブデュル=ハミト2世 Abdül Hamit II (位1876〜1909)は、ロシア=トルコ戦争の勃発を理由に、1878年に憲法を停止し、議会を閉鎖した。
タンジマート
ギュルハネ勅令から1876年のミドハト憲法の発布までの時期に行なわれた一連の西欧化革命を、タンジマート tanzimat (恩恵的改革)と呼ぶ。アブデュル=メジト1世は1839年11月に、外相ムスタファ=レシト=パシャ Mustafa Reshit Pasha (1800〜56)に起草させた勅令をトプカプ宮殿の庭園(ギュルハネ)において発布し、ムスリム・非ムスリムを問わず臣民の生命・財産の保証、徴税請負制の廃止と直接税の導入、徴兵制の改革、法にもとづく統治を唱えた。改革は、外圧によってしかも上から進められたものであったが、スルタンもウラマーも改革法に従うことが宣せられ、神権的なイスラーム国家から近代的法治国家への第一歩をふみだすものであった。
西アジアの動向 オスマン帝国
オスマン帝国 | |
1683 | 第2次ウィーン包囲失敗 |
1699 | カルロヴィッツ条約(対オーストラリア) |
1716 | トルコ=オーストリア戦争(〜18) |
1718 | パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30) |
1744頃 | ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド |
1768 | 第1次ロシア=トルコ戦争(〜74) |
1774 | キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア) |
1787 | 第2次ロシア=トルコ戦争(〜92) |
1792 | ヤッシー条約(対ロシア) |
1821 | ギリシア独立戦争(〜29) |
1826 | イェニチェリを全廃 |
1827 | ナヴァリノの海戦 |
1829 | アドリアノープル条約(対ロシア) |
1830 | フランス、アルジェリアを占領 |
1831 | 第1次エジプト=トルコ戦争(〜33) |
1833 | ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア) |
1838 | イギリス=トルコ通商条約 |
1839 | ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40) |
1853 | クリミア戦争(〜56) |
1856 | パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア) |
1865 | 新オスマン人協会結成 |
1876 | ミドハト憲法発布 |
1877 | ロシア=トルコ戦争(〜78) |
1878 | アブデュル=ハミト2世、憲法を停止 |
1878 | サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う |
1881 | フランス、チュニジアを保護国化 |
1881 | スーダンでマフディー派の抵抗(〜98) |