カージャール朝(
A.D.1796〜A.D.1925)
ザンド朝を倒し、サファヴィー朝滅亡後のイラン高原における政治的混乱を収拾したトルコ系王朝。首都テヘラン。19世紀にはロシアとイギリスを中心とする列強の進出に苦しみ、バーブ教徒の反乱などでも内政も不安定な状況が続いた。
カージャール朝
ザンド朝を倒し、サファヴィー朝滅亡後のイラン高原における政治的混乱を収拾したトルコ系王朝。首都テヘラン。19世紀にはロシアとイギリスを中心とする列強の進出に苦しみ、バーブ教徒の乱などでも内政も不安定な状況が続いた。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
カージャール朝とアフガニスタン
トルコマン系カージャール族のアーガー=モハンマド Aga Mohammad (位1796〜97)は、1785年にザンド朝軍を破り、86年にテヘランを都に定め、地方勢力の平定を進め、96年に戴冠した。カージャール朝 Qajar (1796〜1925)は、一族の者を地方の知事として任命し、配下の軍人にはトゥユール tuyul ❶ と呼ばれる分与地を与え、遊牧民の伝統である分封制をとった。アフシャール朝もカージャール朝も、サファヴィー朝軍隊の中核を握ったキジルバシュ出身であり、遊牧君主の統治という点で共通点をもっていた。
19世紀以降は帝政ロシアが南下政策をとり、カフカスや中央アジアへの領土拡大をねらっていた。1810年にまずグルジアを併合し、カージャール朝はこれを奪回しようと遠征軍を送ったが敗北し、ゴレスターン条約 Golestan (1813)によって北アゼルバイジャンを譲った。1826年に再度カフカスに遠征しロシアと戦ったが、これに敗れ、トルコマンチャーイ条約 Torkomanchay (1828)によってアルメニアを失い、さらに治外法権と市場の開放を認めた。東方ではアフガニスタンをめぐってイギリスと衝突し、1841年の講和でロシアと同様の不平等条約を結ばされ、56年にはヘラートを攻撃したが、イギリスに阻まれた。
カージャール朝は、対外戦争の敗北により財政が破綻し、農地は部族長や商人などの世襲地主の手におち、農民は小作化し、あるいは都市に流入した。また対露対英貿易の開始とともに、イランは綿布を輸入し都市の手織綿布産業は衰退を余儀なくされ、経済危機が進行した。このような状況で、イラン民衆や宗教学者の間には、マフディー mahdi (救世主)の再臨を望む声が強まり、1844年青年サイイド=アリー=モハンマド Sayyid Ali Mohammad (1820〜50)はみずからを「バーブ」 bab (神の真理にいたる「門」を意味する)と宣言し、社会改革を訴えると、農民や中小商人の間に帰依者が拡大した。政府はこれを弾圧したが、48年にバーブ教徒は政府と武力対決を決意し、各地で戦闘したが、いずれも虐殺された。50年にハーブは公開処刑された。
1848年に宰相に就任したアミール=カビール Amir Kabir (1807頃〜52)は、軍事・行政・教育の各方面における近代化改革を始めたが、52年に暗殺され失敗に終わった。以後、カージャール朝は、交通・通信・金融などの各種利権を外国人に切り売りすることによって財政を維持した。1872年には英人ロイターに鉄道・鉱山・銀行・税関などの莫大な利権が譲渡されたが、内外の反対により撤回し、1901年にはイギリスのダーシー William Knox D’Arcy に石油利権が譲渡された。
1890年にタバコの専売利権をイギリス人に譲ることが契約されると、国内のタバコ商人やバザール商人の間に不満が広まった。アフガーニーは、王朝の利権譲渡がイランの民族的危機を招くことを指摘し、専制とイギリス支配への抵抗を呼びかけた。十二イマーム派の最高指導者 ❷ は、各地の宗教指導者やアフガーニーの呼びかけに応え、91年12月にタバコ喫煙の禁忌令を発し、イラン人はいっせいに喫煙をやめ、抵抗を示した。タバコ=ボイコット運動の広がりをまえに、92年1月政府は利権を廃止した。この運動によってイラン人の民族意識は高揚し、宗教指導者をリーダーとする改革運動が勢いを増していった。
西アジアの動向 イラン・アフガニスタン
イラン・アフガニスタン | |
1722 | ロシア軍、イランに侵入 |
1736 | サファヴィー朝滅亡、アフシャール朝成立 |
1739 | アフシャール朝のナーディル=シャー、デリー占領(〜40) |
1747 | アフガン王国独立 |
1750 | イランにザンド朝成立(〜94) |
1794 | カージャールのアーガー=ムハンマド、ザンド朝を滅ぼす |
1796 | アフシャール朝滅亡、カージャール朝成立 |
1804 | 第1次イラン=ロシア戦争(カージャール朝敗北) 1813年ゴレスターン条約条約(ロシアに北アゼルバイジャンを譲る) |
1826 | 第2次イラン=ロシア戦争(カージャール朝敗北) 1828年トルコマンチャーイ条約(ロシアに治外法権を認め、東アルメニア割譲) |
1838 | 第1次アフガン戦争、イギリスの侵略失敗(〜42) |
1848 | バーブ教徒の反乱(〜52) |
1857 | イギリス=イラン戦争終結(56〜) |
1869 | アフガーニ、カイロに移住、活動再開 |
1878 | 第2次アフガン戦争(〜80) → イギリス軍、カブール占拠 |
1891 | イラン、タバコ=ボイコット運動 |
歴代君主
- アーガー=モハンマド(1796年 – 1797年)
- ファトフ=アリー・シャー(1797年 – 1834年)
- モハンマド・シャー(1834年 – 1848年)
- ナーセロッディーン・シャー(1848年 – 1896年)
- モザッファロッディーン・シャー(1896年 – 1907年)
- モハンマド・アリー・シャー(1907年 – 1909年)
- アフマド・シャー(1909年 – 1925年)
参考 Wikipedia