マレー連合州(
A.D.1895〜A.D.1946)
イギリス東インド会社解散後、イギリスがマレー半島内部の諸侯国(スルタン領)に干渉を加え、保護国化した地域。豊富に錫を産出したが、19世紀末からはゴム栽培も盛んになり、中国人やインド人の労働者が多数移住した。
マレー連合州
イギリス東インド会社解散後、イギリスがマレー半島内部の諸侯国(スルタン領)に干渉を加え、保護国化した地域。豊富に錫を産出したが、19世紀末からはゴム栽培も盛んになった。
アジア諸地域の動揺
南アジア・東南アジアの植民地化
諸島部の植民地化
18世紀末からマレーに進出したイギリス東インド会社は、オランダ勢力を駆逐してペナン(1786)シンガポール(1819)・マラッカ(1824)をつぎつぎに獲得し、これら3地方を一括して海峡植民地 Straits Settlements とした(1826)。この植民地は、1858年の東インド会社解散にともないイギリスの直轄植民地となった(1867)。イギリスはその後マレー半島内部の諸侯国(スルタン領)に干渉を加え、これを保護国化してマレー連合州を組織させ(1895)、またブルネイ(1888年保護領化) ❸ やマレー半島内の非連合州とともにシンガポール駐在の海峡植民地知事の統轄下においた(1909)これらの地域は全体でイギリス領マラヤとも呼ばれる。
イギリスがこの地域でこうした積極策にでた理由のひとつは、競争相手であるヨーロッパ諸国に対抗するためでもあり、もうひとつはこの地の錫とゴムの資源を確保するためである。 19世紀に入るとマレー半島ではまず錫の採掘が、同世紀末からはゴムのプランテーション栽培がさかんになるが、それにともない中国人やインド人の労働者が多数移住した。この地域の今日の複雑な民族構成はその結果である。なお1824年に結ばれた英蘭協約は、ナポレオン戦争後のこの地域の勢力範囲を確定したものとして重要である。これによりマラッカ海峡を境界線として北側のマレー半島がイギリスの勢力圏、南側のジャワ島・スマトラ島などがオランダの勢力圏となった。
イギリス領マラヤ
海峡植民地 | マレー連合州 | マレー非連合州 |
1826〜1946 | 1895〜1957 | |
1867〜直轄植民地 | 海峡植民地総督の下で組織した保護国 | |
シンガポール、マラッカ、ペナン | ペラ、セランゴール、ネグリ・セムビラン、パパン | ジョホール、ケダー、ペルリス、ケダン、トレンガヌー |