露清北京条約(
A.D.1860〜)
清が、アロー戦争で英・仏との講和を斡旋したロシアの要求で結んだ条約。アイグン条約で共同管理地とされていたウスリー川以東の沿海州をロシア領と定めた。ロシアは同地にウラジヴォストーク港を建設し、極東・太平洋方面への進出の拠点とした。
露清北京条約
清が、アロー戦争で英・仏との講和を斡旋したロシアの要求で結んだ条約。アイグン条約で共同管理地とされていたウスリー川以東の沿海州をロシア領と定めた。ロシアは同地にウラジヴォストーク港を建設し、極東・太平洋方面への進出の拠点とした。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
ロシアの東方進出
ロシアの東方進出
1689 | ネルチンスク条約 | ピョートル1世(露) | 康熙帝(清) |
1727 | キャフタ条約 | ピョートル2世(露) | 雍正帝(清) |
1828 | トルコマンチャーイ条約 | ニコライ1世(露) | ファトフ・アリー・シャー(カージャール朝) |
1858 | アイグン条約 | ニコライ1世(露) | 咸豊帝(清) |
1860 | 露清北京条約 | アレクサンドル2世(露) | 咸豊帝(清) |
1881 | イリ条約 | アレクサンドル2世(露) | 光緒帝(清) |
ロシア皇帝ニコライ1世は、アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激され、1847年、ムラヴィヨフ Muraviyov (1809〜81)を初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方進出政策をおこなわせた。ムラヴィヨフは極東への植民を推進し、清が太平天国やアロー戦争に苦しんでいるのに乗じて、1858年アイグン条約(璦琿 Aigun )を結び、ネルチンスク条約を修正して、アルグン川と黒竜江を新たな国境線と定め、同江以北の地を獲得したほか、ウスリー江 Ussuri 以東の沿海州を両国の共同管理とした。さらに1860年には、アロー戦争に際し、ロシア公使イグナチェフ Ignatyev (1832〜1908)が英・仏と清朝を仲介し、講和条約(北京条約)を成立させた見返りとして、露清北京条約が結ばれ、ロシアはウスリー江以東の沿海州を獲得した。ロシアは同地にウラジヴォストーク港 Vladivostok ❶ を建設し、極東・太平洋方面への進出の拠点とした。
❶ ウラジヴォストーク港:ウラジヴォストークは、「東方の支配」を意味し、極東進出をめざすロシアの意気込みを示している。しかし、同港は冬季に結氷するため、ロシアは不凍港を求めてさらに南進を策し、これが日・英の警戒心をつのらせ、極東での国際緊張を高める一因となった。