張飛 ?〜221
若くして関羽とともに劉備に仕えた。関羽よりも年下だったため、関羽を兄として慕った。勇猛さと怪力は人並外れ、ひとりで1万の兵にあたると称された。文字通り命懸けで劉備を保護し、蜀王朝の成立に貢献した。身分の高い人を敬愛した反面、身分の低い者に憐れみをかけないという欠点があった。
張飛
単騎で大群を阻み勇名を馳せる
字は益徳。若いとき関羽と共に劉備に仕えるが、関羽が数歳年長であったことから、張飛は彼に兄事した。終始劉備のために奮戦し、1人で1万人に当たる勇猛さによって関羽と並び称された。当陽の長坂では曹操軍の追撃を阻むべく、川を盾にして橋を切り落とし、目を怒らせ、矛を小脇にして、「わが輩が張益徳である。かかってこい。死を賭して戦おうぞ」と名乗りを上げた。すると、誰も思い切って近づこうとしなかったという。身分の高い人を敬愛した反面、身分の低い者に憐れみをかけないという欠点があった。
ひとりで1万の敵にあたる勇猛の将
若くして関羽とともに劉備に仕えた。関羽よりも年下だったため、関羽を兄として慕った。勇猛さと怪力は人並外れ、ひとりで1万の兵にあたると称された。文字通り命懸けで劉備を保護し、蜀王朝の成立に貢献した。
劉備が身を寄せていた劉表が死ぬと、曹操が荊州に軍を向けた。張飛は逃げる劉備軍の最後尾を担当した(長坂の戦い)。張飛は20騎の部下と共に川へ降り、橋を伐り落とす。仁王立ちで「どちらが死するか決すべし」と大声で叫んだところ、曹操軍数千騎の兵は、誰1人近づけなかったという。
その後も張飛は、漢中を攻めた魏の軍隊を攻撃するなど、数々の武功を立てたが、たびたび劉備から戒めを受けていた。これは部下への刑罰が多かったこと。張飛は孫権 との戦いを前にして、恨まれていた部下によって暗殺された。