尊王攘夷論 そんのうじょういろん (幕末)
尊王論(天皇尊崇思想)と攘夷論(外国人排斥思想)とが幕藩体制の動揺と外国の圧迫という危機に際して結合し、形成された政治思想。幕末期、長州藩の下級武士を中心とした尊攘派(尊王攘夷派)は尊王攘夷運動を討幕運動に発展させて明治維新を導いた。
尊王攘夷論
尊王論(天皇尊崇思想)と攘夷論(外国人排斥思想)とが幕藩体制の動揺と外国の圧迫という危機に際して結合し、形成された政治思想。幕末期、長州藩の下級武士を中心とした尊攘派(尊王攘夷派)は尊王攘夷運動を討幕運動に発展させて明治維新を導いた。
幕藩体制の動揺
化政文化
国学の発達
化政文化 国学
荷田春満 (1669-1736) | 古典・国史を研究。国学の学校建設を将軍吉宗に建言。『創学校啓』 |
賀茂真淵 (1697-1769) | 『万葉集』『古事記』を研究し、古道を説く。 『国意考』(儒仏の影響をうけない純粋な日本固有の道で、復古思想を主張) 『万葉考』(『万葉集』の注釈書) |
本居宣長 (1730-1801) | 「もののあわれ」を提唱。国学の基礎を固める。 『古事記伝』(日本古来の「真心」の精神に返ることを主張) 『玉勝間』(宣長の随想集)』 |
塙保己一 (1746-1821) | 和漢の学に通じ、和学講談所を創立。 『群書類従』(古代から江戸初期までの国書の叢書) |
平田篤胤 (1776-1843) | 復古神道を説く。農村有力者にも信奉され、尊王攘夷論に影響。 『古史成文』『古史徴』『古史伝』 |
宣長の影響を受けた平田篤胤(1776-1843)は激しく儒教・仏教を排斥して日本古来の純粋な信仰を尊ぶ復古神道を大成し、農村の有力者に広く受け入れられて、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
政治・社会思想の発達
化政文化 学問・思想の動き
経世論 | 〈化政期、封建制の維持または改良を説く経世論〉 | |
海保青陵 (1755-1817) | 藩営専売制の採用など重商主義を説き、他藩より利をとる方策を主張。『稽古談』(流通経済の仕組みなどを平易に説明) | |
本多利明 (1743-1820) | 開国による重商主義的国営貿易を主張。『西域物語』『経世秘策』(ともに開国交易を提案) | |
佐藤信淵 (1769-1850) | 諸国を遊歴し、著述につとめる。『経済要録』(産業振興・国家専売・貿易の展開を主張)『農政本論』 | |
後期水戸学 | 水戸藩の『大日本史』編纂事業(1657〜1906)を中心に興った学派 | |
9代藩主徳川斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖父子、会沢安らの尊王斥覇理論から攘夷論を展開。藤田東湖『弘道館記述義』会沢安『新論』→ 影響:尊王論と攘夷論とを結びつけ、尊王攘夷論(尊王:将軍は天皇を王者として尊ぶ。攘夷:諸外国を打払う。)を説き、幕末の思想に影響 | ||
藤田幽谷 (1774-1826) | 彰考館総裁として、『大日本史』編纂にあたる | |
藤田東湖 (1806-55) | 幽谷の子。藩主徳川斉昭の側用人として藩政改革にあたり、弘道館を設立。『弘道館記述義』 | |
会沢安 (1782-1863) | 藤田幽谷に師事し、彰考館総裁として、徳川斉昭の藩政改革に尽力。『新論』で尊王攘夷論を唱えた。 | |
尊王論 | 頼山陽 (1780-1832) | 安芸の人。『日本政記』『日本外史』を著し、勤王思想を主張。源平から徳川氏にいたる武家盛衰を記述 |
国学 | 平田篤胤 (1776-1843) | 大政委任論の立場に立つ尊王論で、幕府を否定していない。篤胤の大成した「復古神道」は、儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、幕末の尊王攘夷論に影響を与えた。『古道大意』『古史伝』(国学書) |
後期の水戸学では、藤田幽谷(1774-1826)は、尊王が幕府の権威を維持するために重要であると説き、幽谷に学んだ会沢安(1782-1863)は『新論』で、対外的危機に対応して国家の独立を維持するために、天皇を中心とする政治·宗教体制を構想し、幽谷の子で『弘道館記述義』を密いた藤田東湖(1806-55)や徳川斉昭らも尊王攘夷運動に強い影響を与えた。
古典の研究、復古思想の立場から尊王論を唱えた国学者の本居宣長は、将軍は天皇の委任(「御任」)により政権を担当しているのだから、将軍の政治にしたがうことが天皇を尊ぶことになると説き、幕府政治を否定する考えはなかった。しかし、平田篤胤の復古神道は、各地の豪農・神職たちに受け入れられ、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
公武合体運動が幕府や雄藩藩主層を中心に進められたのと並行して、下級藩士を中心とする尊王攘夷派の動きが激しくなっていった。尊王攘夷論は、尊王論と攘夷論とを結びつけた後期の水戸学の思想で、藤田東湖・会沢安らが中心であった。尊王論それ自体は将軍の支配の正統性を権威づけるものであったが、対外的な危機が迫ると攘夷論と結びつき、欧米列強の圧力に屈服して開国した幕府の姿勢を非難し、実践的な政治革新思想となっていった。
尊王攘夷派の中心になった長州藩も、初めは公武合体運動を進めていたが、1862(文久2)年に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、朝廷内部の尊攘派の公家とも結んで、京都で活発に動いて政局の主導権を握った。尊攘派が優位に立った朝廷は、しきりに攘夷の決行と鎖国への復帰を幕府に迫り、幕府は攘夷決行の意思をもたなかったが、やむなく1863(文久3)年5月10日を期して攘夷を行うことを諸藩に通達した。長州藩はこれに応じ、その日、下関の海峡を通過した外国船に砲撃を加える長州藩外国船砲撃事件をおこした。
真木和泉(1813〜64)らは孝明天皇が大和に行幸し、天皇自ら攘夷戦争の指揮をとる計画もたてたがこの長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩麿・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、ひそかに反撃の準備を進めていた。1863(文久3)年8月18日、薩摩·会津両藩兵が御所を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(1837〜91)らを京都から追放し ❶ 、朝廷内の主導権を奪い返した(八月十八日の政変)。この前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(1845〜64)、土佐藩士の吉村虎太郎(1837〜63)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変また、福岡藩を脱藩した平野国臣(1828〜64)、公家の沢宣嘉(1835〜73)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎(1842〜65)ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこったがいずれも失敗に終わった。
八月十八日の政変で失った勢力を回復する機会をうかがつていた長州藩は、1864(元治元)年、京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた近藤勇(1834〜68)ら新撰組によって京都の旅館池田屋で20数名の尊攘派志士が殺傷された池田屋事件に憤激し、藩兵を京都に攻めのぼらせた。しかし、迎え撃った幕府側の薩摩·会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い、敗走した。この事件が御所周辺でおこったので、禁門の変あるいは蛤御門の変と呼んでいる。
幕府は尊攘派にさらに打撃を加えるため、禁門の変の罪を問うという理由で朝廷から長州征討(第1次)の勅書を出させ、長州藩を攻撃した。また、貿易の妨げになる尊攘派に打撃を加える機会をうかがつていた列国は、イギリス公使オールコック( Alcook, 1809〜97 )の主導により、前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関の砲台などを占領した(四国艦隊下関砲撃事件)。
幕府と列国の攻撃を受けて敗北した長州藩では、尊攘派にかわって俗論派といわれる上層部が藩の実権を握り、禁門の変の責任者として家老3人を切腹させ、幕府に恭順・謝罪の態度を示した。また薩摩藩では、1863(文久3)年に、先の生麦事件の報復のため鹿児島湾に来航したイギリス艦隊と交戦して大きな被害を受け(薩英戦争)、攘夷の不可能なことがしだいに明らかとなった。
イギリスなど4カ国はさらに、尊攘派勢力の退潮という好機を利用して、依然として通商条約を勅許しない朝廷に対して、1865(慶応元)年に兵庫沖に艦隊を送って軍事的な威圧をかけ、兵庫開港は認めさせられなかったものの、通商条約の勅許を勝ち取り、朝廷の攘夷方針をやめさせることに成功した。その翌年、列強は兵庫開港が認められなかった代償として関税率の引下げを要求し、通商条約締結の際に定めた平均で約20%の関税率を廃止し、一律5%に引き下げる改税約書を結んだ。
このころ、対日外交に指導的役割を果たしていたイギリスは、公使パ一クス( Parkes, 1828〜85 )がしだいに幕府の国内を統治する力が弱体化したことを見抜き、対日貿易の自由な発展のためにも、幕府にかわる政権の実現に期待するようになった。薩摩藩でも、薩英戦争で攘夷が不可能であることを知ってイギリスに近づき、西郷隆盛(1827〜77)・大久保利通(1830〜78)ら下級武士が藩政を指導し、武器の輸入・留学生の派遣・洋式エ場の建設など改革を進めていった。
ー方、フランス公使ロッシュ( Roches, 1809〜1901)は幕府を支持し、内政・外交上の助言、さらには600万ドルの借款など、財政的・軍事的援助を与えた。このようにイギリスとフランス両国は対日政策で対立することになり、朝廷·雄藩と幕府の対立と絡みあって外国勢力の介入の危険が高まった。