大津事件 (ロシア皇太子傷害事件) A.D.1891〜
シベリア鉄道起工式出席の途次、訪日中のロシア皇太子ニコライ(のち皇帝ニコライ2世)が滋賀県大津で津田に襲われた。第1次松方内閣は日露関係の悪化をおそれ死刑を要請したが大審院長児島は一般の謀殺未遂罪とし司法権の独立を守った。青木外相は辞任。
大津事件
1891年5月、シベリア鉄道起工式に出席の途次、訪日中のロシア皇太子ニコライ(のち皇帝ニコライ2世)が滋賀県大津で警備巡査津田三蔵に傷つけられた事件。政府は陳謝で事態を収拾、青木外相は辞任した。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
条約改正
ついで外相となった大隈重信は、列国間の対立を利用して国別に交渉を進める方式を取り、税率に関しては井上案同様、法権に関しては外国人判事任用を大審院に限ることとして、まず1888(明冶21)年にはメキシコとの間の条約締結に成功した。ところが翌年、改正案の内容がロンドンのタイムス紙上に暴露されると、日本国内には外国人判事任用は憲法違反だと攻撃する声が高まり、民権派と国権派は共同して反対運動を展開し、1889(明治22)年10月、大隈は九州の国権主義の結社である玄洋社の活動家に爆弾を投じられて重傷を負い、ときの黒田内閣は総辞職して条約改正交渉は失敗に終わった。
1891年5月、滋賀県大津で、シベリア鉄道の起工式にのぞむ途中に来日したロシア皇太子ニコライ(のち皇帝ニコライ2世)が、警備の津田三蔵巡査に襲われ負傷した。成立直後の第1次松方内閣や元老は日露関係の悪化をおそれ、皇族に対する大逆罪を適用し、津田の死刑を要請した。しかし大審院長児島惟謙は、担当判事に通常の謀殺未遂罪での無期徒刑の判決をくださせ、司法権の独立をまもった。 参考: 山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
あとを受けた外相青木周蔵(1844〜1914)は関税協定制・法権回復の案をもってイギリスと交渉にあたった。多少の難色を示しながらイギリスが同意に傾いていったとき、突然、大津事件がおこり、青木は引責辞職して交渉はまたもや中断された。
大津事件
ウラジヴォストークにおけるシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本に立ち寄ったロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ロマノフ( Alexandrovich Romanov, のちのニコライ2世 Nikolai II, 1868〜1918)が、1891(明治24)年5月、滋賀県大津で警固の巡査津田三蔵(1854〜91)に襲われて負傷した。これが、いわゆる大津事件である。ロシアの報復を恐れて、日本の朝野は色を失い、明治天皇自ら皇太子を見舞った。政府は日本の皇室に対する犯罪の刑罰を適用して犯人を死刑にするよう司法部に圧力をかけたが、大審院(院長児島惟謙、1837〜1908)はこれを拒否し、部下を指揮して一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下して、司法権の独立を守った。