第1次松方内閣( A.D.1891〜A.D.1892)
大津事件を処理。第二議会で議会を解散し、選挙干渉を行なったが、民党に敗北した。第三議会に臨んだが、軍事予算を否決されて総辞職した。
第1次松方内閣
大津事件を処理。第二議会で議会を解散し、選挙干渉を行なったが、民党に敗北した。第三議会に臨んだが、軍事予算を否決されて総辞職した。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
初期議会
第二議会(1891年)では、海軍拡張をはじめ政府(第1次松方内閣)の新規事業計画の多くが否決され、予算案を大削減されたことから、最初の衆議院解散が行われた ❸ 。内相品川弥二郎(1843~1900)は第2回総選挙のときに激しい選挙干渉を行って民党候補者の選挙活動を妨害したが、結果は依然として、吏党が過半数の議席を占めることはできなかった。それにより、政府が民党勢力を無視して超然主義に基づく強引な政治運営を進めることは、しだいに困難となった ❹ 。
❸ 海軍拡張予算案審議に際して、海相樺山資紀が、「日本の今日あるは薩長政府のおかげではないか」という趣旨のいわゆる蛮勇演説をおこなって民党の非難をあびたのも第二議会の時である。
❹ この選挙干渉で全国各地において吏党候補と民党候補が衝突し、死者は25名、負傷者は388名にのぼり、民党の名士もかなり落選した。なお、伊藤はこの選挙干渉に対し、自ら政党をつくろうとしたが、政府首脳・元老たちの反対で実現しなかった。
第三議会(1892年)では松方内閣は選挙干渉の責任を追及され、閉会後は閣内の対立から総辞職し、第2次伊藤内閣が成立した。
条約改正
あとを受けた外相青木周蔵(1844〜1914)は関税協定制・法権回復の案をもってイギリスと交渉にあたった。多少の難色を示しながらイギリスが同意に傾いていったとき、突然、大津事件がおこり、青木は引責辞職して交渉はまたもや中断された。
大津事件
ウラジヴォストークにおけるシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本に立ち寄ったロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ロマノフ( Alexandrovich Romanov, のちのニコライ2世 Nikolai II, 1868〜1918)が、1891(明治24)年5月、滋賀県大津で警固の巡査津田三蔵(1854〜91)に襲われて負傷した。これが、いわゆる大津事件である。ロシアの報復を恐れて、日本の朝野は色を失い、明治天皇自ら皇太子を見舞った。政府は日本の皇室に対する犯罪の刑罰を適用して犯人を死刑にするよう司法部に圧力をかけたが、大審院(院長児島惟謙、1837〜1908)はこれを拒否し、部下を指揮して一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下して、司法権の独立を守った。
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