モロッコ事件 Moroccan crisis ( A.D.1905〜A.D.1911)
1905年と11年の2度発生した、モロッコをめぐるドイツとフランス間でおこった国際紛争。モロッコはフランスの保護国となった。
モロッコ事件
1905年と11年の2度発生した、モロッコをめぐるドイツとフランス間でおこった国際紛争。
- 第1次モロッコ事件 :1905 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によるタンジール訪問。英仏協商でモロッコにおけるフランスの優越権を認めたことにドイツ皇帝が反発し、モロッコのスルタンと会見して、フランスの進出に反対であることを表明した。
- 第2次モロッコ事件 :1911 ドイツが軍艦を突如アガディールに派遣した事件。モロッコで発生したベルベル人の反乱鎮圧のためのフランス軍投入に対抗して、居留民保護を口実にドイツが軍艦を派遣した。しかし、イギリスがフランスを支援したため、ドイツはフランスからコンゴ領の一部を得ただけで譲歩した。
帝国主義とアジアの民族運動
帝国主義と列強の展開
フランス
帝国主義時代のヨーロッパ諸国 フランス
フランス国内 | フランス国外 | ||
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1871 | パリ=コミューン | 1870 | プロイセン=フランス戦争(〜71) |
1875 | 第三共和国憲法 | 1878 | ベルリン会議 |
1881 | チュニジア占領 | ||
1882 | 西アフリカでサモリ帝国の抵抗始まる(〜98) | ||
1883 | ベトナム保護国化(ユエ条約) | ||
1884 | ベルリン=コンゴ会議(〜85) | ||
1884 | 清仏戦争(〜85) | ||
1887 | ブーランジェ事件(〜89) | 1887 | フランス領インドシナ連邦成立 |
1889 | 第2インターナショナル結成(パリ 〜1914) パリ万博博覧会 | ||
1894 | ドレフュス事件(〜99) | 1894 | 露仏同盟完成 |
1895 | フランス労働総同盟結成 → サンディカリズム | 1895 | フランス領西アフリカ成立 |
1896 | マダガスカル、領有 | ||
1898 | ファショダ事件 | ||
1904 | 英仏協商締結 | ||
1905 | フランス社会党結成(ジョレス) 政教分離法発布 | 1905 | 第1次モロッコ事件 |
1906 | アルヘシラス会議 | ||
1911 | 第2次モロッコ事件 | ||
1912 | モロッコ保護国化 |
ドイツ
帝国主義時代のヨーロッパ諸国 ドイツ
ドイツ国内 | ドイツ国外 | ||
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1871 | ドイツ帝国成立 帝国宰相 ビスマルク 文化闘争(〜80) | 1870 | プロイセン=フラン戦争(〜71) エルザス・ロートリンゲン獲得 |
1875 | ドイツ社会主義労働者党成立(ゴータ綱領) | 1873 | 三帝同盟締結(独・澳・露) |
1878 | 社会主義者鎮圧法成立 | 1878 | ベルリン会議 ビスマルク「誠実な仲立ち人」→ ロシアの南下政策阻止 |
1879 | 保護関税政策 → 工業化 | 1879 | 独墺同盟締結 |
1883 | ビスマルク、社会保険制度実施(〜89) | 1882 | 三国同盟締結(独・墺・伊) |
1888 | ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)即位(〜1918) | 1884 | ベルリン=コンゴ会議(〜85) |
1890 | ビスマルク、辞職 世界政策(ヴィルヘルム2世) 社会主義者鎮圧法廃止 | 1884 | トーゴ、カメルーン領有 独領南西アフリカ成立 ビスマルク諸島領有 |
ドイツ社会主義労働者党、社会民主党と改称(エルフルト綱領)1891 | 1885 | 独領東アフリカ成立 | |
1886 | マーシャル諸島領有 | ||
1887 | 独露再保障条約締結(〜90) | ||
1896 | 社会民主党のベルンシュタイン、修正主義を主張 | 1899 | バグダード鉄道敷設権獲得 → 3B政策 |
1898 | 建艦政策始まる → イギリスとの建艦競争へ パン=ゲルマン主義広まる | 1905 | 第1次モロッコ事件 マジ=マジ闘争(東アフリカ 〜07) |
1906 | アルヘシラス会議 | ||
1912 | 社会民主党が第一党に躍進 | 1911 | 第2次モロッコ事件 |
世界分割と列強対立
アフリカの植民地化
ドイツはベルリン会議を機に1880年代半ばに、南西アフリカ(現ナミビア)・カメルーン・トーゴランド・東アフリカ(タンガニーカ)の領有権を獲得したが、いずれも経済上の利益をもたらすものではなかった。ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の時代には、植民地を領有することは列強としての存在感を示すための政策とうけとめられるようになった。1904年以後、英・仏の接近に不安を感じたドイツは、フランスのモロッコ支配に異議を唱えて2度にわたりモロッコ事件を引きおこしたが、モロッコはフランスの保護国となった。