全インド=ムスリム連盟 All India Muslim League
1906年、インド国民会議派に対抗するためイギリスの指導で結成されたイスラーム教徒の政治団体。のちインド独立のため国民議会派と共闘。37年の州選挙を機に国民議会派と対決、40年のラホール大会以後はムスリム国家の分離・独立を目指した。
全インド=ムスリム連盟
- 1906年、イギリスの支援で結成されたインドのムスリム政治団体。1906年の結成当初は対英協調路線をとっていたが、16年に国民議会と協定を結んで民族運動に参入した。
- 1906年、イギリスの指導で結成されたイスラーム教徒の政治団体。国民会議派に対抗したが、やがてインド独立のために国民議会派と共闘した。しかし、37年の州選挙を機に国民議会派との対決姿勢を強め、40年のラホール大会以後はムスリム国家の分離・独立を目指した。
- ムスリムの政治団体。1936年以来、ヒンドゥー教と分離するパキスタン(清らかな国)樹立計画を始めた。パキスタンの分離・独立後は政権を担当したが、ジンナーの死後弱体化
帝国主義とアジアの民族運動
アジア諸国の改革と民族運動
インド民族運動の展開
イギリスの植民地支配のもとで、はじめ親英的であったが、やがて民族意識にめざめ、連帯を強める動きもみられるようになった。
イギリスは彼らを懐柔する必要に迫られ、1885年ボンベイでインド人による最初の国民会議 National Congress を開催させた。この会議は、これ以後毎年、開催場所を変えて開かれた。会議への参加者は、はじめ大部分が穏健な知識人であり、イギリスとの協調に重きをおいたが、しだいに民族意識を強め、植民地支配が露骨化するとともに反英の立場を公然と表明するにいたった。会議はまた政党としての組織を整えた。インドの民族運動はこうして生まれた国民会議派が中心となって展開することになる。
ヒンドゥー教徒を中心とする会議派の運動に、少数派のムスリムは不安を抱いた。イギリスは彼らの焦燥感につけこんで、1906年に全インド=ムスリム連盟 Muslim League を組織させ、親英・反会議派の立場をとらせることに成功した。そして1909年のインド統治法ではムスリムに有利な宗教別分離選挙制度を採用するなど、たくみな分割統治策を進めた。
二つの世界大戦
アジアの情勢
ガンディーと不服従運動
第一次世界大戦が始まると、インドは自動的にイギリス側にたって参戦させられた。この戦争でインドはイギリスに人的・物的の両面で協力したが、戦いが長びくにつれ、彼らの間に多大な犠牲を払った代償として自治を要求する声が高まった。またムスリム連盟( インド民族運動の展開)も、カリフの国オスマン帝国と戦うイギリスに反感を抱き、これまで対立してきた会議派と共同歩調をとるにいたった(1916年のラクナウ協定 Lucknow )。彼らの運動はキラーファト運動 Khilafat Movement(カリフ擁護運動)と呼ばれる。