エジプト新王国 前1567〜前1085
第18〜20王朝。テーベの王がヒクソスを追放して成立した。積極的な外征でシリアまで領土を拡大し、トトメス3世の時代に最大領土となった。都は主にテーベに置かれた。
エジプト新王国
第18〜20王朝。テーベの王がヒクソスを追放して成立した。積極的な外征でシリアまで領土を拡大し、トトメス3世の時代に最大領土となった。都は主にテーベに置かれた。
エジプト新王国 第18王朝
紀元前1570年頃 – 紀元前1293年頃
イアフメス1世
ヒクソスの第15王朝を滅ぼし、悲願であったエジプトの再統一を果たす
トトメス1世
紀元前1500年頃、ユーフラテス河畔まで侵攻、オリエント一円を属州とする。
王家の谷
古代エジプトの王達は、来世への復活を万全のものとし自らの権威を示すために巨大な王墓を造営していた。新王国時代、第18王朝の王トトメス1世の頃にテーベ西側の涸れ谷に初めて王墓が造営されて以降、歴代の王達がこの地で次々に王墓を造営した。これが王家の谷である。第2中間期、第17王朝時代の王墓がメル墓(小ピラミッド墓)であったのに対し、第18王朝に入ると王墓の形式は変化した。葬祭殿と王墓が分離し、谷を掘って作る岩窟墓になった。
ハトシェプスト女王
紀元前1490年頃、ハトシェプストの統治。
ハトシェプスト女王葬祭殿
ハトシェプストは女王としては初めてエジプトの実質的な統治権を握った人物であった。彼女はデイル・アル=ハバリにあるメンチュヘテプ2世王墓の真横に巨大な葬祭殿を建設させた。
トトメス3世
紀元前1470年頃、トトメス3世によるアナトリア、アジア遠征。ヒッタイトバビロニアを属国化。
エジプト史上最大版図を築く。メギドの戦いでカナーン連合軍に勝利する。
トトメス3世は「古代エジプトのナポレオン」とも評される征服王であった。彼はテーベのアメン神殿に第6塔門、4本のオベリスクなどを建設し、ヘリオポリスにも2本のオベリスクを建てた。トトメス3世が行った多くの建設事業は宰相レクミラによって監督されたと考えられている。
メギドの戦い
紀元前15世紀にトトメス3世率いるエジプト軍とカデシュ王率いるカナーン連合軍との戦い。エジプト側が勝利し、カナーン連合軍はメギドへ向けて敗走した。エジプト軍はメギドを七ヶ月にわたり攻囲したうえ開城させた。ファラオと共に従軍した書記の記録に基づいた複合弓の使用、死者数などの記録が残る歴史上最古の戦いである。テーベ(今日のルクソール)のカルナック神殿外壁にヒエログリフにより記録されている。
アメンホテプ3世
紀元前1360年頃、アメンホテプ4世によるアマルナ宗教改革(伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、太陽神アトンの一神崇拝に改める。世界最初の一神教といわれる)。戦闘を避けたため国力が一時低下する。
第18王朝が最も繁栄した時代を統治したアメンヘテプ3世は空前の規模の建築活動を行った。取り分け重要なのはテーベのそばに作られたマルカタ王宮である。王宮は南宮殿、中宮殿、北宮殿からなり、その北にはアメン神殿が建てられた。また王宮にはビルカト・ハーブと呼ばれる長さ3km、幅900mにわたる人造湖が作られ、ナイル川と結ばれて港湾施設となっていた。
画像出典: 早稲田大学エジプト学研究所
アメンホテプ4世 (イクナートン)
アマルナ改革 – はじめて一神教(アトン神)という宗教スタイルを作り上げる。アケトアトンへ遷都。
アトン信仰を追求し、他の神の排除を行ったアメンホテプ4世の時代にはアトンのための新都アケトアトンが建設された。これは現在アマルナと呼ばれており、ここから発見された多数の外交書簡などは古代史の解明に大きな役割を果たしている。また彼の治世にはアマルナ美術と呼ばれる新しい芸術様式が普及した。
アマルナ美術
アメンホテプ4世によるアトン信仰の追求は、古い芸術様式の否定と新しい美の基準を生み出した。これには王自身の意向が強く働いていたと思われ、当時の宮廷彫刻家ベクは、宮廷彫刻家とは「見た通りに表現するものである」と王から命ぜられたと言う。
こうして生み出されたアマルナ美術の特徴はリアリズムにある。特に王像の表現における変化は顕著で、それまでの理想的な姿を描いた王像と異なり、イクナートンの王像は細長い手足、垂れた胸、突き出た腹を持つ醜悪な外見をしている。やがてこの王の体型が新しい基準となり、他の人物像もこれによくにた体型で表現されるようになった。
神像表現も変化した。アトン神は従来一般的であった人型の神、或いは獣面人身の表現をされず、太陽を示す円盤から多数の手が差し伸べられるという新しい図像で表現された。これは全ての人に手を差し伸べると言うアトン神の性質を表すために生み出された表現である。
こうしたアマルナ美術は、類型化、理想化の傾向が強かったエジプト美術に新しい息吹を吹き込み、その後の美術に少なからぬ影響を残した。
ツタンカーメン
紀元前1345年頃、ツタンカーメン王によるアメン信仰復活。
メンフィスに遷都。ツタンカーメンの黄金のマスク
トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)自体はそれほど目立つ王ではないが、ほとんど無傷で発見された彼の王墓から豪華な副葬品が出土し、古代エジプトの美術品の中でも最高水準のものを現代に伝えた。実際には彼の王墓も2度の盗掘を受けているが、王墓が異例なほど小規模だったことと、その後の工事の際に瓦礫の下に埋まってしまったこと、更にアトン信仰に関わった王の歴史が後に抹消されたことなどが重なり、本格的な盗掘を免れた。
エジプト新王国 第19王朝
- 世襲王家の復活
- ラメセス2世: カデシュの戦いでヒッタイトと戦う。アブ・シンベル神殿
- メルエンプタハ: 前1200年のカタストロフによる動乱期に入る。
セティ1世
紀元前1300年頃、セティ1世によるアジア遠征。
ラメセス2世
ラメセス2世は古代エジプト史上最大の建築活動を行った王である。エジプト各地に彼の記念建造物が残されており、代表的なものとしてはヌビアに建設されたアブ・シンベル神殿やテーベに建てられたラメセス2世葬祭殿(ラメセウム)が挙げられる。
ヒッタイトとの戦争
シリアで勢力を拡張するヒッタイトに対するために、かつてヒクソス(第15王朝)が拠点を置いた下エジプト東部の都市アヴァリスを元に、ペル・ラムセス(ラムセス市)を建設し、アジア方面への遠征のための軍事拠点とした。そして数次にわたるアジア遠征を行い、シリア地方に対する支配権回復を目指した。
カデシュの戦い
紀元前1274年にシリアのオロンテス川一帯(トップ画像の地図参照)で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦い。史上初の公式な軍事記録に残された戦争であり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。
エジプト新王国 第20王朝
新王国の繁栄が終わりを告げ、古代エジプトが衰退し始める時代を統治した王朝である。ほとんどの王がラムセスと言う名を持っていることからラムセス王朝と呼ばれることもある。
- ワセトを中心とするアメン神官団がアメン大司祭国家を作り、上エジプトを支配する。
ラムセス3世
最後の偉大な王とも言われるラムセス3世が建設したラムセス3世葬祭殿(マディーナト・ハブ神殿)は「海の民」に関する記録が碑文に刻まれていることから重要である。壁面にはラメセス2世の葬祭殿から複写された戦勝記念碑分などが記載されている。
ラムセス3世の葬祭殿に残された碑文によれば、既に彼らによってエジプトの同盟国ヒッタイトが滅ぼされ、シリアやキプロスも荒廃していたと言う。