昌慶宮 (チャンギョングン)
李氏朝鮮時代の大王大妃や大妃など王の家族が住んだ宮殿。大韓民国の史跡第123号に指定されている。
アドレス: ソウル特別市 鍾路区 昌慶宮路 185
昌慶宮
歴史
- 成宗14年(1483年)
- 世宗が上王の太宗を奉養するために建てた「寿康宮」の跡地に、大王大妃と大妃を奉養する際に宮闕の不足を補充するため「昌慶宮」を建立。南側には宗廟、西側には昌徳宮が隣接している。
- 文禄の役(1592年)
- 国王の宣祖が漢陽(ソウル)から逃亡すると、豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり景福宮や昌徳宮などと共に建物の多くが焼失した。
- 1909年
- 日本が純宗の心を慰めるとして昌慶宮内の宮門や塀を壊して動物園(「京城李王職昌慶苑動物園」)と植物園を造り一般人も観覧できるようになる。
- 1911年
- 博物館を建て、昌慶苑に改名した。
- 1984年
- 動物園などをソウル郊外のソウル大公園へ移転させ、昌慶宮を復元・整備し、再び名前を元来の昌慶宮に戻した。大韓民国の史跡第123号に指定されている。
昌慶宮内地図
- 弘化門(ホンファムン) 昌慶宮の正門。大韓民国の宝物第384号に指定。1484年に建てられたが文禄・慶長の役の際に焼失、1616年に再建、現在に至る。
- 玉川橋(オッチョンギョ) 昌慶宮禁川上にかかる橋。大韓民国宝物第386号に指定
- 明政門(ミョンジョンムン)
- 明政殿(ミョンジョンジョン) 昌慶宮の正殿。大韓民国の国宝第226号に指定。1484年に建てられたが文禄・慶長の役の際に焼失、1616年に再建、現在に至る。
- 文政殿(ムンジョンジョン) 昌慶宮の便殿。
- 観天台(クァンチョンデ) 宝物第851号。 粛宗 14年(1688年)に建てられた天文観測台。瞻星台ともいう。
高さ2.2m、階段を通じて登っていく台上には99cmの支柱が立ち天文観測器具を設置できるようになっている。最初は昌徳宮金虎門外に建てられていたが、文禄・慶長の役の際に移転後、現在の位置に移された。観天台の上には星を観測する器具である小簡儀が置かれていたが、現在は残っていない。 - 崇文堂(スンムンダン) 王の経筵が行われた所。国事を論議することもあった。懸板の字は英祖直筆。
- 涵仁亭(ハミンジョン)
- 景春殿(キョンチュンジョン) 正祖と憲宗が生まれた殿。
- 歓慶殿(ファンギョンジョン)
- 通明殿(トンミョンジョン) 宝物第818号。通明殿は王妃の生活空間として宴会を開いたりした所である。1484年(成宗15年)に建てられたが、文禄・慶長の役の際に焼失、1616年(光海君8年)に再建されたが、その後何度か火事があり、現在の建物は1834年(純祖34年)に再建されたもので、懸板は純祖の字である。通明殿は昌慶宮の内殿建物の中で規模が大きく、飾りが派手で、内殿を代表する建物であり、四隅に軒をめぐらした八作屋根に軒を支える栱包は3枚の羽模様の翼工様式の家で、屋根に棟のないのが特徴である。前面には長く整えた石を高く広く積んだ月台を置いて格式を高め、西側には池と石橋などを置いて周囲の空間も美しく整えている。
- 養和堂(ヤンファダン) 養和堂は王妃の生活空間として1484年(成宗15年)に建てられた。文禄・慶長の役と李适の乱、丙子の役によって焼失、そのたびに再建し、1830年(純祖30年)再び焼失したのを1843年に再建、今日に至る。丙子の役が起きた際、仁祖は南漢山城で身を避けたのち翌年帰って来てここに住むこともあり、1878年(高宗15年)哲宗の王妃・哲仁王后がここで崩御した。懸板は純祖の字である。養和堂は正面6間、側面4間規模の平屋で、四隅に軒をめぐらした八作屋根を載せ、軒を支える栱包は3枚の羽模様の翼工様式である。