西方イスラーム世界 バグダードからカイロへ ホラズム・シャー朝 ゴール朝 ムワッヒド朝 アイユーブ朝 12世紀末のイスラーム世界地図
12世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

アイユーブ朝


アイユーブ朝 (1169〜1250)
12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配した スンナ派のイスラム王朝。首都:カイロ。
王朝の創始者: シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)。

アイユーブ朝

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の発展

バグダードからカイロへ

シリアのザンギー朝(1127〜1222)からエジプトに派遣されたクルド人の将軍サラディン(サラーフッディーン)は、ファーティマ朝の宰相となって実権を握り、アイユーブ朝(1169〜1250)を開いた。

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サラディンはアッバース朝カリフの宗主権を承認し、スンナ派の信仰を復活してイスラーム世界の統一をはかった。また、エジプトにイクター制を導入して軍政を整えたサラディンは、対十字軍戦争を積極的に推し進め、1187年にはティベリアス湖西方のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、約90年ぶりに聖地イェルサレムを奪回した。
これに対しイギリスのリチャード1世(イングランド王)(1189〜1199)は、聖地の再征服をめざして第3回十字軍をおこしたが成功せず、サラディンと和して帰国した。

イェルサレム

イェルサレム(アラビア語ではクドス 「聖地」の意味)は、ユダヤ教徒にとってはソロモンによる神殿建設の場であり、キリスト教徒にとってはイエスの死と復活の舞台であった。またイスラーム教徒にとっても、イェルサレムはメッカ、メディナにつぐ第3の聖地であった。それは、預言者ムハンマドが天馬に乗ってメッカからイェルサレムに夜の旅をし、そこから天に昇って神にまみえたとする伝説にもとづいている。ムハンマドは、「岩のドーム」の中央にある灰白色の聖石から天に旅立ったとされる。

アイユーブ朝第7代スルタンのサーリフ(スルタン)(在位:1240〜1249)は、トルコ人奴隷兵を数多く購入してマムルーク軍団を組織したが、やがてその勢力は強大となり、1250年、アイユーブ朝を倒してエジプト、シリアにマムルーク朝を建国した。
しかし、シリアにはまだアイユーブ家の勢力が残存し、またエジプトではアラブ遊牧民が異民族の政権に対して大規模な反乱を起こしたから、成立当初のマムルーク政権は不安定な状態にあった。
第5代スルタンに就任したバイバルス(1260〜1277)は、シリアに侵入したモンゴル軍を撃退するとともに、アッバース朝カリフの後裔こうえいを新しいカリフとしてカイロに擁立し、さらにメッカ、メディナの両性都を保護下に入れることによって、マムルーク朝国家の基礎を確立した。

バグダードからカイロへ – 世界の歴史まっぷ

変遷

1169年 成立

サラディンによる独立政権の樹立
  • 1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝(シーア派の一派・イスマーイール派が建国したイスラム王朝。エジプトを支配。)の宰相・シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた。
  • 1164年4月、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードはシールクーフ(サラディンの叔父)を司令官とする遠征軍をエジプトに派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家イェルサレム王国のアモーリー1世に援助を求めた。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはイェルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した。
  • 1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。和議に際してシャーワルはイェルサレム王国に貢納と引き換えに援助の約束を取り付けるが、ファーティマ朝のカリフ・アーディドや民衆はシャーワルの方針に不満を抱き、シャーワルを排除する計画が巡らされた。さらにエジプトは十字軍の攻撃を受け、フスタートが十字軍によって制圧されることを恐れたシャーワルはフスタートに火を放ち、フスタートは焦土となった。シャーワルと敵対する派閥の人間はヌールッディーンに支援を求めた。
  • 1168年12月、シールクーフとサラディンはアレッポを発って3度目のエジプト遠征を行い、シールクーフの進軍を知ったアモーリー1世はパレスチナに撤退する。
  • 1169年1月、シールクーフ軍はカイロに入城し、シャーワルはアーディドの命令によって処刑される。シールクーフはシャーワルに代わるファーティマ朝のワズィール(宰相)・軍司令官に就任する。
  • 1169年3月、シールクーフは急死し、サラディンが宰相職を継承した。宰相に就任した後、サラディンは「マリク・アル=ナースィル(勝利の王)」の称号を使用する。
12世紀十字軍国家地図
12世紀十字軍国家地図 ©世界の歴史まっぷ

1187年 イェルサレムの占領

ヒッティーンの戦い

交戦: アイユーブ朝(サラディン) 対 イェルサレム王国(ギー・ド・リュジニャン)・テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団
場所: ヒッティーン
結果: サラディン率いるアイユーブ朝の勝利。聖地イェルサレムを奪回、イェルサレム王国を滅亡寸前まで追い込む。十字軍国家はほとんどが崩壊し、リチャード1世(イングランド王)、フィリップ2世(フランス王)、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)による第3回十字軍の動機となる。

第3回十字軍

フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は行軍中に陣没し、1191年7月末にフィリップ2世(フランス王)がフランスに帰国した後、サラディンと最後に残ったリチャード1世(イングランド王)の戦闘は一年以上に及んだ。
サラディンとリチャード1世の戦闘は膠着状態に陥り、1192年9月2日に和平が成立した。和平に伴ってヤッファ以北の沿岸部は十字軍、アシュケロン以南はイスラム勢力が領有する取り決めが交わされ、キリスト教巡礼者のイェルサレム入城が許可された。

1193年 サラディンの死

1192年11月にサラディンはダマスカスに凱旋し、翌1193年3月4日に没した。

領土の分割

サラディンの死後、サラディンの長子であるアル=アフダルが彼の後継者になると思われていたが、イクター制により以下のようにアイユーブ朝の領土は分割され、各地の王族は独立した政権を樹立し、アイユーブ朝は事実上分裂した状態に置かれることになる。

  • アル=アフダル – ダマスカス、イェルサレム、バールベック、海岸地帯
  • アル=アジーズ(サラディンの子) – エジプト
  • アル=マリク・アル=ザーヒル(サラディンの子) – アレッポ
  • アル=アーディル(サラディンの弟) – カラク、シャウバク、ディヤルバクル
  • マンスール(サラディンの甥の子) – ハマー
  • シールクーフ(1169年に没したシールクーフの孫) – ホムス

カラクのアル=アーディル(サラディンの弟)は、サラディンの息子たちの不和に乗じてエジプト・シリアで勢力を拡大し、1196年7月にアフダルをダマスカスから追放し、1198年11月にアジーズが狩猟中に事故死を遂げると彼の領地であるエジプトを勢力下に収めた。エジプト支配を確立したアーディルは一族間で優位に立ち、サラディンが帯びていなかったスルターンの称号を使用するようになる。アーディルと彼の地位を継承したスルターンたちは、対立するアイユーブ朝の諸王族や十字軍勢力との間で複雑な駆け引きと政治を展開した。

第4回十字軍によって1204年にラテン帝国が建国された後、アル=アーディル(サラディンの弟)はヴェネツィアやピサなどのイタリア半島の都市国家との通商関係を継続するため、ラムラとナザレを十字軍勢力に割譲する。
1204年と1212年の2度にわたってアイユーブ朝と十字軍勢力の休戦協定が更新されたが、ローマの教皇庁では中東遠征の再開が検討されていた。アル=アーディルは東方に存在する十字軍勢力に干渉を行わず、1218年に第5回十字軍が実施された当初も戦争の回避を考えていた。

ドイツ十字軍

1197年にハインリヒ6世(神聖ローマ皇帝)が派遣したドイツ十字軍がアッカーに上陸する。ベイルートなどの沿岸地域の主要都市を奪回した十字軍勢力はシリア内陸部への攻撃を試みるが、イタリアに滞在していたハインリヒ6世が病死したため、再びアイユーブ朝と十字軍の間に和約が結ばれる。

第5回十字軍

ホノリウス3世(ローマ教皇)の呼びかけに応じたアンドラーシュ2世(ハンガリー王)、レオポルト6世(オーストリア公)らがイェルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルト6世やジャン・ド・ブリエンヌらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。
1218年8月24日にエジプトの海港ダミエッタ(ディムヤート)を包囲しされる。
8月末にアル=アーディルはカイロで没する。アーディルの死後、彼の息子たちが領土を分割して相続し、アル=カーミルがエジプト、アル=ムアッザムがダマスカス、アル=アシュラフがメソポタミアを支配した。そしてホムス、ハマー、イエメンにはアーディル一族以外のアイユーブ家の人間が割拠していた。
1219年にダミエッタ(ディムヤート)は陥落。
ここでアイユーブ朝側は旧イェルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。
1221年にはフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)からの援軍を受け攻勢に出たが、十字軍は進軍中にナイル川の氾濫に巻き込まれて壊滅し、エジプト軍は壊滅した敵軍に追撃を行って勝利を収め十字軍のペラギウスら残る全軍が捕虜となる。
両軍の間で和平が結ばれ、ダミエッタはエジプトに返還された。

ラスール朝

アイユーブ朝が十字軍勢力との抗争に軍事力を集中している間、イエメンのアル=マンスール・ウマルがイエメンで起きた反乱に乗じてアイユーブ朝からの独立を企て、1229年にザビードでラスール朝が創設される。1241年/42年には、ラスール朝によってメッカからアイユーブ家の勢力が一掃された。

第7回十字軍

カーミルの死後に国家の統一は再び失われ、王朝は衰退に向かっていく。1238年にカーミルが没した後、アッ=サーリフとアル=アーディル2世の兄弟によって国土が分割され、ヒスン・カイファーのサーリフはカイロでスルターンを称した弟のアーディルとエジプトの支配を巡って争った。
1238年12月にサーリフはダマスカスを占領するが、1239年9月にダマスカスはイスマーイールに奪回され、アーディルの逮捕を阻もうとするカラクのダーウードによって拘束される。また、1239年11月にダーウードはイェルサレムに奇襲をかけ、町をイスラーム勢力の手に回復する。翌1240年にダーウードから解放されたサーリフは彼と同盟を結び、5月にアーディルを廃してスルターンに即位する。

1240年代初頭、サーリフはかつてのアーディルの支持者に報復を行い、ダマスカスのイスマーイールとの関係を改善したダーウードと対立した。サーリフ、イスマーイールらは、ライバルに対抗するため十字軍との同盟を計画する。ダーウードも他の競争者と同様に十字軍勢力に同盟を持ちかけ、1243年に同盟の条件としてイェルサレムを十字軍に返還し、町からイスラームの宗教家を引き上げさせた。
1244年にサーリフはシリアに逃れたホラズム・シャー朝の遺民と連合してラ・フォルビの戦いで十字軍勢力に勝利を収め、イェルサレムを再び支配下に置いた。

サーリフは多数のマムルークを購入し、1241年2月にナイル川のローダ島に彼らが居住する兵舎を建設する。ローダ島で暮らすマムルークは「川のマムルーク」を意味する「バフリー・マムルーク」の名前で呼ばれた。

1249年にルイ9世(フランス王)が率いる十字軍がダミエッタに襲来し、町を占領下に置いた(第7回十字軍)。
十字軍の襲来時に病床にあったサーリフはイェルサレムの返還と引き換えに十字軍のダミエッタからの撤退を提案したが、ルイ9世はサーリフの提案を拒絶し、サーリフはマンスーラに移動して迎撃の態勢をとった。同年10月にサーリフは没し、サーリフの子であるムアッザム・トゥーラーン・シャーが駐屯先のメソポタミアからエジプトに帰国するまでの間、サーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルが代理で政務を執った。サーリフの死を伏せるために一定の時刻に食事と薬が病室に運び込まれ、偽のサーリフの署名がある命令が発せられた。
フランス軍はダミエッタからマンスーラに進軍するが、2月9日に将軍バイバルスが率いるバフリー・マムルーク軍団がマンスーラの戦いで十字軍に勝利を収める。2月にトゥーラーン・シャーはエジプトに帰国し、シャジャル・アッ=ドゥッルから国政を譲渡される。4月7日に追い詰められたフランス軍はエジプト軍に降伏し、捕虜となったルイ9世はマンスーラの邸宅に拘留された。

1250年 大アイユーブ朝滅亡

即位したトゥーラーン・シャーは義母のシャジャル・アッ=ドゥッルに敵意を表し、バフリー・マムルークを投獄・免職して、直属の部下を要職に登用した。
シャジャル・アッ=ドゥッルとバフリー・マムルークはトゥーラーン・シャーの殺害を共謀し、1250年5月2日にトゥーラーン・シャーは暗殺され、エジプトのアイユーブ家の政権は滅亡する。

マムルーク朝の成立

トゥーラーン・シャーの死後にシャジャル・アッ=ドゥッルを君主とする政権が樹立され、マムルーク朝が成立した。また、捕らわれていたルイ9世はトゥーラーン・シャー存命中の合議に従い、全兵士の撤退と身代金の支払いと引き換えに釈放された。

アイユーブ朝が登場する映画

キングダム・オブ・ヘブン

アイユーブ朝 サラディン
キングダム・オブ・ヘブン (サラディン)

キングダム・オブ・ヘブン -Kingdom of Heaven

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アイユーブ朝の歴代君主

  1. サラーフッディーン(在位:1169年 – 1193年)
  2. アル=アジーズ(在位:1193年 – 1198年)
  3. アル=マンスール・ムハンマド1世(在位:1198年 – 1200年)
  4. アル=アーディル(在位:1200年 – 1218年)
  5. アル=カーミル(在位:1218年 – 1238年)
  6. アル=アーディル2世(在位:1238年 – 1240年)
  7. サーリフ(在位:1240年 – 1249年)
  8. トゥーラーン・シャー(在位:1249年 – 1250年)
  9. アル=アシュラフ・ムーサー(在位:1250年 – 1254年)
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