アラリック1世
アラリック1世 ©Public Domain

アラリック1世 (360年〜410年) 
西ゴート族の王。在位395‐410年。ローマ帝政末期の政治的・軍事的混乱期に多数の帰服民を含む雑多な蛮族集団を率い、食糧と定住地を求めて帝国の領内を放浪しギリシアやイタリアの諸都市を荒廃させた。ときには皇帝の同盟軍としても行動したがしばしば東西両帝国の不和に乗じて官位や金銀を要求し、また要求の実現のため対立皇帝をも擁立した。410年には三たび都府ローマに攻め入って大規模な略奪を行い人々を恐怖に陥れた後帝国の穀倉地アフリカへ渡ろうとして果たせず南イタリアで没した。

参考 世界大百科事典

アラリック1世

  • 西ゴート族の族長の息子として生まれ、394年にローマの補助軍となっていた一族の指揮をとるようになった。しかし翌395年にローマ皇帝テオドシウス1世が死去すると、父親の後を継いで東ローマ帝国の皇帝となったアルカディウスが、西ゴート族への給金の支払いを停止した。そこで西ゴート族はアラリックを王とし、西へと略奪に向かった。
  • 396年、西ゴート族はギリシアを守るテルモピュライの隘路あいろ、コリント地峡を、なんの抵抗もなしに通過し、コリント、アルゴス、スパルタなどの都市を攻略し、アテネからは、多大な賠償金を得た。西ローマ帝国の将軍スティリコは海からペロポネソスに上陸して西ゴート族を追いつめようとしたが、スティリコが少し油断した隙に西ゴート族は包囲網を突破し、さらにスティリコは東ローマ皇帝に退却を指示されたため、アラリックとスティリコの戦いは終わった。こののち西ゴート族は、エピルス(現在のアルバニア)、さらにはイリュリクム(現在のボスニア・ヘルツェゴビナからハンガリーにかけて)にまで進んでいた。
  • アルカディウス帝はアラリックをイリュリクムの総司令とし、西ローマ帝国への牽制とした。アラリックは一度北のドナウ川流域に出て、いくつかのゲルマン民族の部族を傘下に収めたのち、401年にイタリアに侵入した。当時、西ローマ帝国の宮廷はミラノにあったが、ホノリウス帝はこれを受けて宮廷をラヴェンナへ移した。
  • スティリコはその時、ラエティア(ほぼ現在のスイス)でアレマンニ族と戦っていたが、この報を聞き、急遽彼らを降伏させてイタリアへと急行した。402年、ポルレンティアの戦いとヴェローナの戦いでアラリックはスティリコの部隊に敗れた。
  • 敗走後アラリックはイリュリクムに戻って再起を図った。その後、西ローマとの同盟の約束が成立したが、ガリア情勢が逼迫ひっぱくして、この企てはとりやめになり、アラリックは賠償として黄金1800kgを要求した。スティリコはそれに応じたが、ホノリウス帝がスティリコを処刑して、合意は破棄された。そこでアラリックは再度イタリアに侵入し、410年にローマを攻略して3日間にわたり略奪する(ローマ略奪)。その後、アッピア街道を南へと進軍したがまもなくアラリックはコゼンツァで病死した。

アラリック1世が登場する作品

ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡 ゴート族 ローマ帝国 アラリック1世
ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡

ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡 – 世界の歴史まっぷ

なぜ西ゴート族はローマ略奪を行ったのか。
なぜ西ローマ帝国は崩壊していったのか。

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