アレクサンドル2世
アレクサンドル2世(作者不明/エルミタージュ美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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アレクサンドル2世 Aleksandr II( A.D.1818〜A.D.1881)

ロマノフ朝第12代ロシア皇帝(在位1855〜1881)。クリミア戦争中に即位。イギリス・フランス軍に敗北を喫したことで農奴制ロシアの後進性を痛感し、農奴解放令を発布し自由主義的改革を進め、ポーランドの反乱後は反動的政治姿勢をとる。ナロードニキから生じたテロリズムに暗殺された。

アレクサンドル2世

ロシア皇帝(在位1855~81)。農奴解放令により「解放皇帝」の別名がある。クリミア戦争の敗北で絶望のうちに急死した父ニコライ1世の跡を襲って即位、まずパリ条約(1856)で戦争の重荷を解いた。この条約で黒海での軍艦の保有が禁止されたので、東地中海への進出をひとまずあきらめ、敗戦で急務となった国内改革の準備に専念した。1861年農奴解放を布告、その他一連の措置によって「上から」の改革を実行した(ゼムストヴォ)。この「大改革」は、ツァーリズムを西ヨーロッパ型の資本主義発展の線に沿って近代化したのではなく、腐朽した旧地主経済を新たな状況に適応しうるよう再編成したものにほかならず、収奪の機構は一層精緻せいちなものとなった。それゆえ、騒擾そうじょうは都市と農村の双方で激化し、「解放皇帝」も弾圧政策に復帰せざるをえず、63年ポーランドの反乱(1863)では徹底的な弾圧を加えた。皇帝の治世に、革命陣営は質量ともに注目すべき発展をとげた。60年代インテリゲンツィアは「人民のなかへ(ヴ・ナロード)!」の標語を掲げて農村に潜入し、70年代後半労働者は端緒的組織をもつにいたった。他方66年のD.V.カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件をはじめとする皇帝へのテロ行為も相次いだ。対外面では極東と中央アジアで大いに版図を拡大し、また70年普仏戦争でのフランスの敗北に乗じて黒海艦隊の復活を宣言、73年ドイツ、オーストリアとの間に三帝同盟を締結して国際的地位を強化し、露土戦争(77~78)に勝利を収めた。戦後ナロードニキは、皇帝へのテロ行為をさらに強化した。皇帝はテロには強硬な措置をとったが、自由主義的世論には迎合し、憲法の作成を命じて局面の打開をはかろうとした。しかし、時すでに遅く、81年3月13日、「ロリス・メリコフの憲法」を裁可したまさにその日、ナロードニキの一派「人民の意志(党)」に属するI.グリネビツキーの投じた爆弾で暗殺された。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

ロシアの改革

クリミア戦争で、近代化したイギリス軍とフランス軍に敗北を喫したことは、ロシアの後進性を明確にし、戦争中に即位したアレクサンドル2世(位1855〜81)は1861年農奴解放令を発布した。これは原則的に領主制を廃止し、農奴の人格的自由を無償で解放するものであったが、土地に関しては有償とし、農民には資金がなかったので、政府がいわゆる「買い戻し金」を肩がわりして地主に補償金を支払い、農民は政府に対して借金を49年間の年賦で償還するという方法がとられた。さらに土地を購入してもそれは個人には属さず、ミール(農村共同体)に帰属することが多く、買い戻し金支払いにも共同体が連帯責任を負うことが決められていたので、きわめて地主に有利であり、徹底的解決策ではなかった。しかし、これはアレクサンドル2世の地方自治改革など一連の改革も合わせ、ロシア資本主義発達の出発点となった。

地方自治機関であるゼムストヴォの設立、裁判制度、軍制改革(兵士の読み書き能力を高める試みがなされた)の実施など、一連の改革によって中間階級が台頭し、医者・弁護士など自由職業が出現し、都市労働者も増大した。1870年代に入ってからナロードニキが活発に活動したのはこうした背景があった。

皇帝自身は、1863年におこったポーランドにおける反ロシア独立運動に手を焼いていたこともあって、その後反動的政治姿勢をとるにいたった。

1870年代に入って、農民は解放されたといっても長期の借財に苦しみ、生活環境の改善は進まなかった。ロシアでは工業化の遅延から市民階級の成長は遅れていたが、新しい改革を目指す人々がいた。それは都市に居住し、進歩的貴族や新興市民の子弟からなり、西欧的教育を身につけてロシアの後進性を意識し、改革の必要性を認識していた知識人階級(インテリゲンツィア)であった。彼らはミールという農村共同体に相互扶助の伝統があったことに注目し、資本主義を通過しないで社会主義を実現しようとする方針をもって、「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」を合言葉に農村工作運動を展開した(ナロードニキ運動)。この運動を進めた人々をナロードニキ narodniki といい、70年代前半はほとんど農民にうけいれられなかったが、後半には「土地と自由」を掲げて半インテリとして農村に定住し、地道な活動を進めたので、一部には受け入れられるようになった。しかし、政府の弾圧が厳しく、結果的にはほとんどが失敗に終わった。そのため革命の展望を失ったナローニキのなかには、アナーキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無主義)に走るものも現れ、皇帝や政府高官の殺傷をめざすテロリズム(暴力主義)が活発化した。1881年アレクサンドル2世はこのテロリストの爆弾によって死亡した。

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