イブン=シーナー( A.D.980〜A.D.1037)
イランの哲学者・医学者。その天才ぶりから各地で要職につく。研究は多岐にわたり、哲学を体系化し、医学書は西欧の医学の教科書となった。
イブン=シーナー
天才的な哲学・医学者
イランの哲学者・医学者。その天才ぶりから各地で要職につく。研究は多岐にわたり、哲学を体系化し、医学書は西欧の医学の教科書となった。
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
学問の発達
イスラーム教徒は、まずこれらの翻訳によってギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを学び、これらを臨床や観測・実験によってさらに豊富で正確なものとした。ブハラ生まれのイブン=シーナー(980〜1037)は、臨床によって病理を綿密に分析した『医学典範』を著し、イスラーム医学界の最高権威とみなされた。またティムールの孫で第4代君主ウルグ・ベク(1447〜1449)によってサマルカンドに建設された天文台では、高度な観測の結果に基づいて『ウルグ・ベク天文表』がつくられ、ギリシア天文学の成果を一新した。
学問の発達 – 世界の歴史まっぷ
ヨーロッパのイスラーム文明
13世紀半ばころまでには、アリストテレスの哲学書とイスラーム教徒によるおもな著作はほとんどラテン語に翻訳されたが、なかでもイブン=シーナーとイブン・ルシュドの哲学研究は、ヨーロッパの思想界に大きな影響を与え、カトリックの神学体系の樹立に貢献した。
また自然科学の分野でも、クレモナのジェラルドによって翻訳されたイブン=シーナーの『医学典範』は、ヨーロッパでもっとも権威ある医学書とみなされ、16世紀まで各地の医学校で教科書として使われていた。
ヨーロッパのイスラーム文明 – 世界の歴史まっぷ
生涯
- イブン=シーナーは、980年8月末にサーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれる。
- 16歳の時にはすでに患者を診療。無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高める。
- サーマーン朝のアミール・ヌーフ2世の病を治療して信任を得、王室附属図書館を自由に利用することを許される。18歳までに蔵書の全てを読破。
- 999年、イブン=シーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡。
- 22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出る。
- ホラズム地方のクフナ・ウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始。
- ブワイフ朝統治下のハマダーンの君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、シャムス・ウッダウラの疝痛を治療して能力を認められ、信任を得て宰相に起用される。
- 1020年、『医学典範』完成。
- 移住したエスファハーンがガズナ朝から攻撃を受け、イブン=シーナーは蔵書を含む所有物を奪われる。病に倒れた時、奴隷に多量のアヘンを飲まされて財産のほとんどを奪われ、最後まで窮乏から立ち直ることができなかった。
- タジキスタンで流通している20ソモニ紙幣には、イブン=シーナーの肖像が使用されている。
参考 Wikiwand