モンゴル帝国の解体 チャガタイ・ハン国 元(王朝) イルハン国 モンゴル帝国 モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ

イルハン国

現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1256年/1258年〜1335年/1353年)。首都はタブリーズ
アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置いたが1295年イスラーム王朝へ転身する。

イルハン国

世界史対照略年表(1300〜1800)
世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

内陸アジア世界の変遷

イルハン国
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

モンゴル民族の発展

モンゴル帝国の成立

オゴタイの長子グユク(モンゴル帝国皇帝)(1246〜1248)が没し、かわって即位したモンケ(モンゴル帝国皇帝)(1209〜1259)は、弟のフレグに西アジア遠征を命じた( → フレグの西征)。フレグは、イランのイスマーイール派(シーア派)を破り、1258年にはバグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼし、イランを中心にイルハン国を建てた。

モンゴル帝国の成立 – 世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の発展

バグダードからカイロへ

13世紀初めになると東方ではモンゴルの勢力が台頭し、フレグの率いるモンゴル軍は西アジアに進出して、1258年にバグダードを陥れた。これによってアッバース朝は滅亡し、600年にわたって続いたカリフ制度もいったん消滅した。フレグはイランとイラクを領有し、イルハン国を樹立した。

建国当初のイルハン国はシリアへの進出をはかってエジプトのマムルーク朝と対立したが、ガザン・ハンの時代にイスラーム教を国教とし、みずからもこれに改宗した。彼は、人頭税・家畜税を主とするモンゴル式税制を、地租(ハラージュ)を中心とするイスラーム式税制に改め、またイクター制を導入して農村の復興に努めた。ガザン・ハンはイスラーム教を熱心に保護する政策をとり、これによって異民族モンゴル人の支配のもとで、イラン・イスラーム文明が花開いた。

イクターとは、国家から授与された分余地、あるいはそれからの徴税権を意味する。イクター制はブワイフ朝時代のイラクに始まり、セルジューク朝のとき西アジア各地に広まった。イルハン朝、デリー・スルタン朝、ティムール朝オスマン帝国サファヴィー朝でも、本質的にこれと同じ制度がおこなわれた。
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モンゴル宗室家系図

ハイドゥの乱
モンゴル宗室の系図

フレグの西征

元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

オゴタイの長子グユク(モンゴル帝国皇帝)(1246〜1248)が没し、かわって即位したモンケ(モンゴル帝国皇帝)(1209〜1259)は、弟のフレグに西アジア遠征を命じた(フレグの西征)。
1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。
1256年にニザール派(暗殺教団)のルクヌッディーン・フルシャーが降伏すると、フレグはイランの制圧を完了させた。
1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)、アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き、西部進出を伺った。
1260年、フレグはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻)、アレッポとダマスカスを支配下に置いた。

イルハン朝建国期

モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ

1260年春頃に兄モンケ(モンゴル帝国皇帝)死去の報を受けると、フレグはカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄フビライ(元世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断した。
フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。

また、成り行きで西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のベルケとは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャンの支配権を巡って対立し(ベルケ・フレグ戦争 1262年)、チャガタイ・ハン国とはマー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って対立したが、キプチャク・チャガタイの両ハン国がオゴタイ=ハン家のハイドゥを第5代大ハーンフビライに対抗して大ハーンに推戴したため、フレグはフビライの支配する元朝との深い友好関係を保った。さらにキプチャク・ハン国のベルケはマムルーク朝のバイバルスと友好を結び、イルハン朝挟撃の構えを見せた。

十字軍遠征

アバカは父と婚約の予定であったミカエル8世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝)の皇女マリアと結婚し、自身もネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったため、イルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んでいた。
1268年、マルムーク朝の第5代スルタンのバイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激した。
1269年、モンゴル帝国のチャガタイ家の第7代当主バラクとハイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻する。
1270年、第8回十字軍で苦戦していたアッコン防衛にエドワード1世(イングランド王)が派遣されるが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。
1270年7月21日、 カラ・スゥ平原の戦い:イルハン朝第2代君主アバカと、チャガタイ・ハン国の第6代君主のムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったチャガタイ家の第7代当主のバラクとの間で行われた戦い。この戦いでアバカは大勝し、イルハン朝の基盤を強固なものとした。

後継者争い

イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。
その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。

イスラーム王朝への転身

13世紀末のイスラーム世界地図
13世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

1295年、アバカの孫で第7代君主のガザンは、叔父第5代君主ゲイハトゥを殺した第6代君主バイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。
ガザン・ハンはハン位奪取にあたってイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。
ガザン・ハンは自ら「イスラームの帝王(パードシャー)」を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。
ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。
イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。

さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

パレスチナ戦線 (1299年–1300年)及びBattle of Marj al-Saffar (1303)でマムルーク朝に敗れ、以降のマムルーク朝によるシリアの支配が確定した。
ガザンは「サイイドたちの館(ダールッスィヤーダ)」と呼ばれる預言者ムハンマドやカリフ・アリーの後裔であるサイイドたちのための宿泊施設を各地に建設し、また各地でモスクやマドラサその他宗教・公共施設の建設や改修、ワクフ物件の設定が行われた。

歴代君主

  1. フレグ(1256年 – 1265年)
  2. アバカ(1265年 – 1282年) – フレグの子。
  3. アフマド・テクデル(1282年 – 1284年) – アバカの弟。
  4. アルグン(1284年 – 1291年) – アバカの子。
  5. ゲイハトゥ(1291年 – 1295年) – アルグンの弟。
  6. バイドゥ(1295年) – フレグの五男・タラガイの子。
  7. ガザン(1295年 – 1304年) – アルグンの子。
  8. オルジェイトゥ(1304年 – 1316年) – ガザンの弟。
  9. アブー・サイード(1316年 – 1335年) – オルジェイトゥの子。後見人はチョバン。
  10. アルパ・ケウン(1335年 – 1336年) – フレグの弟アリクブケの曾孫。

アルパ・ケウン殺害後の諸ハン

  • トガ・テムル(1337年 – 1353年) – チンギス=ハンの弟ジョチ・カサルの後裔。イルハン朝のハンを称した人物の中で最後に没した事実上最後のハン。
  • ムーサー(1336年 – 1337年) – バイドゥの孫。
  • ムハンマド(1336年 – 1338年) – フレグの子モンケ・テムルの玄孫。
  • ジハーン・テムル(1338年 – 1340年) – ゲイハトゥの孫。タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ(大ハサン)によって廃されジャライル朝が成立。
  • サティ・ベク(1338年) – 女帝。オルジェイトゥの娘で、チョバンの妻。シャイフ・ハサン(小ハサン)の傀儡だったが反乱を起こし、追放された。
  • スライマーン(1338年 – 1353年) – フレグの子イシムトの後裔で、シャイフ・ハサンの傀儡のサティ・ベクと結婚した。1343年にシャイフ・ハサンが暗殺され、チョバン朝(1340年 – 1357年)が内紛状態になると、権力維持を求めてタージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグに介入を求めたが、アシュラフが後を継いだ。スライマーンの死後、チョバン朝はジョチ・ウルスに撃破されて滅亡した。

参考 Wikipedia

関連:ラシードゥッディーン – 世界の歴史まっぷ

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