イヴァン3世 (イヴァン大帝
A.D.1440〜A.D.1505)
モスクワ大公(在位1462〜1505)。最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪と結婚(1472)、ローマ帝国の後継者とギリシア正教の守護者をもって任じ、ツァーリ(皇帝)の称号を用い、ロシアは古代ローマ、ビザンツに次ぐ「第三のローマ」を自認した。
全国一律の法典を整備し、大公権力の強化と農民の農奴化を進め、ノヴゴドロその他の諸公国を併合し、ほぼロシアの統一を完成させるとともに、1480年にはモンゴルの支配から完全に自立した。
イヴァン3世
ロシア帝国の基礎を築く
モスクワのクレムリン。イヴァン3世が壁と塔をレンガ造りに変えた。
ヨーロッパ世界の形成と発展
東ヨーロッパ世界の成立
東スラヴ人の動向
モスクワ大公国
やがて14世紀になると、ロシア諸公国の中でモスクワ大公国がキプチャク・ハン国に取り入って勢力を強めた。イヴァン1世(1325〜1340)は、ハンからウラディミル大公の称号を獲得すると(1328)、モスクワにキエフ府主教を迎え、ロシア教会の中心的地位を確立した。また、モスクワはノヴゴロドとともに商業としてしても栄え、移住民の流入を促した。1380年、ドミートリー・ドンスコイ(1359〜1389)は諸公勢力を結集し、クリコヴォの戦いでハンの大群を撃破した。
キプチャク・ハン国は、まもなくティムールの攻撃を受けて衰退し、その領土からシビル・ハン国・カザン・ハン国・クリミア・ハン国・アストラハン・ハン国などの各ハン国が独立していった。その後、モスクワ大公国はイヴァン3世(位:1462〜1505)の時代にノヴゴドロその他の諸公国を併合し、ほぼロシアの統一を完成させるとともに、1480年にはモンゴルの支配から完全に自立した。
またこれよりさき、イヴァン3世は最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾイ・パレオロギナ)と結婚(1472)、ローマ帝国の後継者とギリシア正教の守護者をもって任じ、ツァーリ(皇帝)の称号を用いた。(ここに、ロシアは古代ローマ、ビザンツに次ぐ「第三のローマ」を自認した。)
内政面では全国一律の法典を整備し(1497)、大公権力の強化と農民の農奴化を進めたが、それらの政策はイヴァン4世(イヴァン雷帝 位:1533〜1584)に受け継がれ、16世紀のロシアはポーランドにかわって東欧の強国の地位を占めるにいたった。
イヴァン3世の鐘塔とツァーリの鐘
イヴァン3世はイタリア人建築家アリストテレス・フィオラヴァンティを招いてクレムリン宮殿内に一連の聖堂をつくらせた。外観はビザンツ的傾向をもちながらも、構造や均整はルネサンス様式を取り入れている。鐘楼の上にある横木3本の十字架は教皇のみが使用する十字架で、ツァーリがロシア正教会の「教皇」であることを示している。
世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」
内陸アジア世界の変遷
モンゴル民族の発展
モンゴル帝国の解体
キプチャク・ハン国
首都:サライ
キプチャク・ハン国は、バトゥがヨーロッパ遠征(バトゥの西征)の帰途、南ロシアに建国。住民の多くがトルコ系であったことから急速にイスラーム、トルコ化した。また、ロシアの諸侯を朝貢させ、黒海から東方につうじる交通路を支配して、マムルーク朝や東ローマ帝国と交渉をもち、ウズベク・ハンの時代には最盛期を迎えた。しかし、15世紀には内政の腐敗から衰退し、イヴァン3世のモスクワ大公国の独立によって崩壊した。
- モンゴル帝国の解体 – 世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
ロシアの台頭
ロシアに統一国家が成立するのは、15世紀末のことである。「タタールの軛」すなわちキプチャク・ハン国の支配から脱したモスクワ大公国のイヴァン3世(位1462〜1505)は、諸公国を征服して統一を達成した。東ローマ皇帝の後継者として「ツァーリ(皇帝)」を自称した彼は、ギリシア正教会の権威をも背景として、その専制支配を強固なものにした。
参考 詳説世界史研究