ウィリアム1世(イングランド王)
バイユーのタペストリーに描かれたウィリアム1世(イングランド王)©Public Domain

ウィリアム1世(イングランド王)


ウィリアム1世(イングランド王) A.D.1027〜A.D.1087
ノルマン朝を創始した征服王。
ノルマンディー公ギヨーム2世だったが、イングランドの王位継承権を主張し、ハロルド2世を破り戴冠式を行う(ノルマン・コンクエスト)。土地台帳を作成し、貴族に忠誠を誓わせ、封建制度を確立した。ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。

ウィリアム1世(イングランド王)

ノルマン朝を創始した征服王

ノルマンディー公。イングランドの王位継承権を主張し、ハロルド2世(イングランド王)を破り戴冠式を行う(ノルマン・コンクエスト)。土地台帳を作成し、貴族に忠誠を誓わせ、封建制度を確立。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

プランタジネット朝
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

ヴァイキングの活動

1066年、エドワードが没すると、義弟のウェセックス伯ハロルドが王を称し(ハロルド2世(イングランド王))、おりから大軍を率いて北部の要衝ヨークに侵入したハラール3世(ノルウェー王)と戦い、これを撃破した。
この隙をついて、南岸に上陸したのがノルマンディー公ウィリアムであった。ウィリアムはエドワード懺悔王の遠縁にあたり、王から後継者の約束を受けたことを理由に、王位を要求した。ノルマン騎士軍を率いたウィリアムは、急遽南下したハロルド2世(イングランド王)をヘイスティングズの戦いで廃止させたのち、ウィリアム1世(イングランド王)として即位し、ノルマン朝を開いた(1066「ノルマン征服(ノルマン・コンクエスト)」)。
ウィリアム1世は、数年のうちに北部を中心とするアングロ・サクソン貴族の反乱を抑え、全イングランドに支配を確立すると、フランスから封建制度を導入して統治した。こうして、ノルマン朝のもとでイングランドの封建国家化が進むことになった。

西ヨーロッパ中世世界の変容

イギリスの封建社会と身分制議会
イギリスの封建社会はノルマン朝において確立された。ウィリアム1世(イングランド王)は、征服の過程で土着のアングロ・サクソン貴族の土地を没収し、配下のノルマン貴族らに騎士的奉仕の代償として授封した。そして、1085年より1年がかりで全国規模の検地を実地し(この検地帳がドゥームズデイ・ブック)、王権を強化した。それは、フランスなどとくらべてもきわめて集権的な封建国家の成立を意味した。
ドゥームズデイ・ブック:domesday (doomsday) とは「最後の審判 the Last Judgement の日」の意味であり、測量調査の厳正ぶりを「最後の審判」にたとえて、こう呼ばれるようになった。
イギリスの封建社会と身分制議会 ノルマン朝 ノルマン朝系図 イギリスの封建社会と身分制議会
ノルマン朝系図 ©世界の歴史まっぷ
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生涯

ノルマンディー公時代

ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるロベール1世(ノルマンディー公)の庶子として、フランスのファレーズで生まれた。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アルレット。出生のため庶子公ギヨーム (Guillaume le Bâtard) とも呼ばれる。

1035年、ギヨームは父から継承者に指名され、イェルサレム巡礼に出発して戻る途中に没した父の後を継いでフランス王の臣下であるノルマンディー公ギヨーム2世となる。
若年のため重臣達との争いが起こり、1047年にアンリ1世(フランス王)の助けを得てヴァル・エ・デュヌの戦いで諸侯の軍に勝利、領内の安定化に尽力して勢力を蓄えた。
1049年にウェセックス王アルフレッド大王とマーシア王オファの子孫であるボードゥアン5世(フランドル伯)の娘マティルダ・オブ・フランダースと結婚したが、近親であることを理由にレオ9世(ローマ教皇)から婚姻の無効を申し立てられた。

この頃のイングランドはサクソン七王国の支配の後、一時デーン人の支配を受けたが、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王がイングランド王に即位した。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣のいないエドワード懺悔王の跡を周辺国の王や諸侯達は虎視眈々と狙っていた。
ノルマンディー公ギヨーム2世は1052年にイングランドへ渡海、懺悔王から王位継承を約束されたとされる。懺悔王の母エマがギヨームの大叔母であることがギヨームの王位継承権の根拠となっており、また懺悔王はデーン人の支配をのがれて20年あまりをノルマンディーに亡命生活を送ってギヨームとは親しい関係にあった。

ノルマンディーへ帰還後の1053年にマティルダと改めて結婚、レオ9世の結婚禁止令は1059年になってニコラウス2世(ローマ教皇)によって解除され、イングランド王家と縁戚を得るに至った。
マティルダとの間にロベール2世(ノルマンディー公)、ウィリアム2世(イングランド王)、ヘンリー1世(イングランド王)、アデル(スティーブン(イングランド王)の母)などが生まれた。後に腹心となるカンタベリーのランフランクスともこの頃に出会い、彼をルーアン大司教に任命した。
1063年にル・マンとメーヌを征服、領土を拡大した。
翌1064年、懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世(イングランド王))がフランスに渡ろうとして嵐で難破、ノルマンディーに漂着した。ノルマンディー公ギヨーム2世はハロルドを歓待、ハロルドもギヨームに臣従の礼を取り、懺悔王亡き後のギヨームの王位継承を支持することも約束した。しかし、ハロルドはイングランド帰国後にこの約束を破ることになる。

ノルマン・コンクエスト

1066年1月にエドワード懺悔王が死去すると、義兄のハロルド・ゴドウィンソンが名乗りをあげてハロルド2世(イングランド王)に即位した。その弟トスティ・ゴドウィンソンはこれに不満を持ちハーラル3世(ノルウェー王)を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込んだ。ギヨームもエドワード懺悔王とハロルドとの約束を掲げて9月28日、6000人の騎士を含む12000の兵を率いてイングランド南岸に侵入した。

両面に敵を受けたハロルド2世は、まずトスティとハーラル3世を9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで討ち取ると、反転して10月14日にヘースティングスでギヨーム軍と戦った(ヘイスティングズの戦い)。
騎兵を主力とするノルマン軍ははじめ歩兵中心のイングランド軍に苦戦を強いられたが、敗走すると見せかけて後退し、それを追って敵軍が陣形を崩したのを機に反転して攻勢をかけ、ついにハロルド2世を討ち果たした。ドーバー、カンタベリーも落とし、12月にロンドンを降伏させた。

1066年12月25日、ギヨームはウェストミンスター寺院ウィリアム1世(イングランド王)として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得た。
エドワード懺悔王の又甥で後継者に指名されていたエドガー・アシリングを擁立したマルカム3世(スコットランド王)(エドガーの姉マーガレットと再婚していた)とスヴェン2世(デンマーク王)は1068年に北部貴族の反乱を支援してイングランドに侵攻したが、1071年に阻止、マルカム3世を臣従させてエドガーと和解、イングランド支配を安定させた。

バイユーのタペストリー

1066年のノルマン・コンクエスト(ノルマンディー公兼イングランド王ウィリアム1世によるイングランド征服)の物語が刺繍されたタペストリー。
エドワード懺悔王がギヨーム2世を後継者とすべくハロルド・ゴドウィンソン(ハロルド2世)を使者として送るところから始まり、ヘイスティングズの戦いにおけるハロルド2世の戦死と敗残兵追撃の場面で終わっている。

バイユーのタペストリー 全編 – 世界の歴史まっぷ

イングランドの統治

ウィリアム1世(イングランド王)は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うとノルマン人の家臣に与え、同時に戦時への参戦を約束させ、イングランドに封建制度を確立した。
王領もイングランド全域の5分の1に達し、御料林の拡大と直轄軍所有で王権も拡大した。1070年にカンタベリーのランフランクスをカンタベリー大司教に任命、1072年にランフランクがヨーク大司教を従属させようとして生じた争いに干渉し、カンタベリー側に肩入れしてこれを第1位の大司教と定め、イングランド宗教界を傘下におさめることにも成功した。
グレゴリウス7世(ローマ教皇)は世俗君主による聖職者の任免を問題としていたが、ウィリアム1世はイングランド国内の聖職者に対する国王の優越を主張、後にイングランドにも叙任権闘争が生じるきっかけとなった。

エドワード懺悔王の財務・文書制度は継承したが、国王裁判所の設置などで司法制度も整え、1085年には最初の土地台帳とも言うべきドゥームズデイ・ブック (Domesday Book) が作成され税制度も定められ、同時に軍事力も把握された。
1086年にソールズベリーでイングランド全ての領主を集め、自分への忠誠を誓わせた(ソールズベリーの宣誓)。この宣誓は以後のイングランド王も繰り返し行い、貴族の家臣である陪臣も国王と直接忠誠を誓う義務を負った。

1087年、フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因で、ルーアンに近いサン・ジャーヴェにて60歳で亡くなった。死因はマンテの攻城戦の折、落馬した時に鞍頭で受けた胴部の傷が原因だった。遺体はノルマンディーのカーンにあるセントピーターズ教会で埋葬された。次男ウィリアムはウィリアム2世としてイングランド王に即位し、長男ロベールがノルマンディー公に叙位された。後にロベール2世はフランス王フィリップ1世と結んで2度に渡ってウィリアム2世と対峙した。

ウィリアム1世のイングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継いだ。またウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代と共に現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていった。

子女

  1. ロベール2世(ノルマンディー公) (1054年頃 – 1134年)
  2. リシャール(ベルネー公) (1055年頃 – 1081年頃)
  3. アデリザまたはアリス(1055年頃 – ?)
  4. セシル・ド・ノルマンディー(サント・トリニテ修道院の院長) (1056年頃 – 1126年)
  5. ウィリアム2世(イングランド王) (1056年頃 – 1100年) – ノルマン朝第2代イングランド王。赤顔王。
  6. アリソン (1056年 – 1090年頃)
  7. アデル・ド・ノルマンディー (1062年 – 1138年) – エティエンヌ2世(ブロワ伯)と結婚。スティーブン(イングランド王)の母。
  8. アガサ(1064年頃 – 1080年頃)
  9. コンスタンス・ド・ノルマンディー (1066年頃 – 1090年) – アラン4世(ブルターニュ公)と結婚。
  10. マティルダ (生没年不詳)
  11. ヘンリー1世(イングランド王) (1068年 – 1135年) – ノルマン朝第3代イングランド王兼ノルマンディー公

Wikipediaより

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