エリザベス1世(イングランド女王)
エリザベス1世(イングランド女王)(ウォバーン・アビー蔵)©Public Domain

エリザベス1世(イングランド女王)


エリザベス1世(イングランド女王)( A.D.1553〜A.D.1603)

イングランド王国テューダー朝第5代女王(在位1558年11月17日 - 1603年3月24日)。イギリス宗教改革を完成させる。イギリス絶対王政の最盛期を築く。スペインの無敵艦隊を打ち破る。他国に先駆けてイギリス東インド会社を設立。重商主義政策をとると同時に救貧法を制定。大英帝国への礎を築く。

エリザベス1世(イングランド女王)

両極を避け中道をいく宗教政策

異母弟エドワード6世(イングランド王)と異母姉メアリー1世(イングランド女王)の死をうけ、エリザベスは1558年に即位した。父ヘンリー8世(イングランド王)の意思を受け継いて宗教改革を推し進めたエドワードとカトリック復活を推進したメアリーに対し、やや保守的ながら明らかにプロテスタントの信仰を抱いていたエリザベスは、2人のちょうど中間を選んだ。改革を進めながらもその急進化は避け、カトリックの穏健派を取り込むという、できるだけ荒波を立てない手法を選択したのである。

だが弱気であったわけではない。カトリックの活動を大目にみたのも治世前半までで、新体制が浸透したとみられた治世後半には、イエズス会の活動が活発化したこともあって、力による弾圧を辞さず、治世末年までに200人ほどを処刑している。一方でプロテスタントの急進派をも見逃すことなく、女王が進める宗教改革を生ぬるいとして批判した、分離派と呼ばれる人々の命も少なからず奪っている。国家の安定を第一とし、左右の両極を断固排除していったのである。

硬軟織り交ぜた外交で難局を乗り切る

近代には大英帝国と呼ばれることになるが、エリザベス即位当時のイングランドはヨーロッパのなかでもまだ強国とはいいがたかった。それだけに巧みな外交が要求されたわけで、エリザベスは期待に十分応える舵取りをおこなった。

最大の脅威はフランスとスペインだったが、まずフランスとの間では、即位の翌年に条約の締結にこぎつけ、不毛な戦争を終結させた。さらにその翌年にも別の条約を結び、フランス軍をスコットランドから排除し、スコットランドにおけるプロテスタントの優位を確立させた。

一方のスペインとは、ネーデルラント(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)をめぐり対立が深まっていた。あくまでネーデルラントをスペイン・ハプスブルク家の支配下にとどめておきたいフェリペ2世(スペイン王)世に対し、エリザベスは自国の安全のためにもネーデルラントの自立を願い、その独立戦争を支援した。ついには決定的な勝利をおさめるにはいたらなかったが、スペインの鋭気をくじくことには成功した。イングランドが強国の仲間入りを果たす基礎を築いた。

イングランドでは重大な政治犯をロンドン塔に監禁する習慣があり、メアリー1世(イングランド女王)の治世下、エリザベスも入れられたことがある。彼女は生きてそこを出られた稀な例である。
母・アン・ブーリンはここで処刑された。現在世界遺産に登録されている。
ロンドン塔 – 世界の歴史まっぷ
ロンドン塔
ロンドン塔 Wikipedia

プロテスタントの反乱を計画した疑いをかけられたエリザベスが、1年近くにおよび幽閉されていたロンドン塔。

エリザベスは生涯独身を貫いた。国内外のさまざまな政治的・宗教的な思惑や派閥抗争を考慮しての処置である。ただし、レスター伯をはじめ愛人とされる男は複数存在した。「私は国と結婚した」といい、生涯一度も結婚することのなかったエリザベス1世は、処女王とも呼ばれる。
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「統一法」により国内の宗教的安定をはかる

ヘンリー8世(イングランド王)の2番目の妃アン・ブーリンは、エリザベスが3歳になる前に刑死した。姦通の罪を着せられたからで、そのためエリザベスも父からつらく当たられたという。少女時代は外国語、古典、歴史などの勉学に勤しみ、イギリス国教会の信仰も厚かった。

異母姉メアリー1世(イングランド女王)が王位に就き、カトリック化をはかると、それに反発して各地で反乱が起こった。エリザベスは反乱への関与を疑われ、ロンドン塔に幽閉されたが、命は助かった。

エリザベスが王位を継承したのは25歳。エドワード6世(イングランド王)の国教主義を継承、翌年「統一法」を発し、イギリス国教会制度を確立した。エリザベス1世は、これまで体験した父・ヘンリー8世(イングランド王)や異母姉・メアリー1世(イングランド女王)の治世に鑑み、国家の安定を第一義とする慎重な舵取りを行う。国際紛争の火種になることは避け、フェリペ2世(スペイン王)やフェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)の子カール2世(オーストリア大公)らの求婚を避けた。議会で「私はイギリスと結婚した」と宣言し、生涯独身を貫いた。

エリザベス1世
エリザベス1世 「虹の肖像」©Public Domain

右手に平和を象徴する虹をつかみ、左袖に知恵を表す蛇の文様が描かれたエリザベスの肖像。また、オレンジ色のマントに描かれた耳や目は、国民を監視していることを暗示している。

スペインの覇権を奪い大英帝国の基礎を築く

イギリス絶対王政の最盛期を迎えた治世後半、エリザベス1世は、積極的な外交を見せる。スペイン、フランスから独立をはかるオランダ(独立戦争(八十年戦争))を支援し、さらにスペイン船を狙う海賊行為(私拿捕しだほ)を奨励して対抗。北アメリカ大陸へも進出した。

スペインとメアリー(スコットランド女王)によるエリザベス1世暗殺計画が発覚すると、メアリーを処刑し、スペインとの海戦に踏み切った。スペインの誇る「無敵艦隊」を討ち破った(アルマダの海戦)。結果、イギリスの国際的地位は飛躍的に上昇した。

他国に先駆けてイギリス東インド会社を設立。通貨改革も行い、重商主義政策をとると同時に、救貧法を制定するなど社会政策も推し進めた。

治世の後半は、宗教に関して毅然とした態度でのぞむ。イエズス会が力をつけると、計200名近くを処刑。急進的新教徒の一派の処刑もおこなった。

新植民地はアイルランドのみであったが、産業、経済、文化の面での繁栄は大英帝国へのいしずえとなった。

結婚はしなかったが恋人はいた

「処女王」と呼ばれ、国外王家との婚姻を拒否したエリザベスだが、恋人はいた。貴族ロバート・ダドリーもそのひとり。しかしダドリーの妻が変死し、暗殺説が持ち上がると、無実のエリザベスは、すぐに身を引き、混乱を防止したという。アメリカのヴァージニア州は彼女にちなんでつけられた名前。

アメリカへの進出の足がかりをつくった探検家ウォルター・ローリもエリザベス1世の恋人で、ヴァージニア州の名付け親。しかしのちにエリザベスの侍女と恋に落ち結婚したため、エリザベスの怒りをかい、ロンドン塔に幽閉された。
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エリザベス一世の外交政策

エリザベス一世の外交政策
エリザベス一世の外交政策 ©世界の歴史まっぷ
イギリス東インド会社
イギリス東インド会社(Thomas Malton画)©Public Domain

イギリス東インド会社(ロンドン) 1600年、エリザベス1世により設立された。香料貿易を目的としたが、アンボイナ事件後、インドネシアの水域から撤退。インド経営に重点をおくことになった。ムガル帝国内部に進出してインド支配を広げ、しだいに貿易よりも植民地統治の行政機関化した。1858年に解散した。

山川出版社
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山川 詳説世界史図録

同時代の人物

今川義元 (1519〜1560)

戦国時代の武将。兄との家督争いに勝利し、三河松平氏を支配下に置き、尾張へ侵攻。 駿河・遠江・三河で検地を実施し財政を強化し、戦国大名領国化を完遂した。上洛を目指したが、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ戦死した。

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