オットー1世(神聖ローマ皇帝)
マイセン大聖堂にあるオットー1世(右)とブルグントのアーデルハイトの像 Source Wikipedia

オットー1世(神聖ローマ皇帝)


オットー1世(神聖ローマ皇帝) A.D.912〜A.D.973

東フランク王国の王となり、「帝国教会政策」で中央集権体制を確立。レヒフェルトの戦いで、マジャル人を討ち、キリスト教社会を異民族から守った功績で、ローマ教皇から帝冠を受け神聖ローマ帝国が誕生。イタリア介入は、のちの皇帝と教皇の対立を招いた。

オットー1世(神聖ローマ皇帝)

閣下統一を強く推進した神聖ローマ帝国初代皇帝

カール大帝がつくりあげた大フランク王国は早くも分裂し、東フランクはドイツとなった。父の跡を継いでドイツ国王に即位したオットー1世は、諸部族の反乱を抑えザクセン王族の支配を確立。
一方、イタリア王ロタール2世を亡くした夫人のアーデルハイトが王位簒奪者からの救援を求めてきた。イタリアに遠征して彼女を救うと、妻を亡くしたオットー1世は自分の娘ほども若いアーデルハイト(ブルグントのアーデルハイト)と結婚し、イタリア王の権利を得た。その後、ヨハネス12世(ローマ教皇)の要請で再びイタリアに遠征すると、北イタリアを支配下においた。こうして962年、オットー1世はヨハネス12世(ローマ教皇)から「神聖ローマ帝国」の帝冠を授かった。それは古代ローマ帝国を受け継ぐ、ヨーロッパ最高君主の称号であった。
ローマ教会とフランク王国流れ図
ローマ教会とフランク王国流れ図 ©世界の歴史まっぷ
カール大帝の後継者:カール大帝の後継者を自任し、936年、オットー1世はカール大帝の宮廷があったアーヘン(エクス・ラ・シャペル)の大聖堂で戴冠式を行った。
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ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立

東フランク

ハインリヒの死後、その子オットー1世が即位した。彼は、太公勢力を抑えるために、ドイツの司教に王領地を寄進して伯職と同等の権利を与え、教会を国家の組織に組み込む政策(帝国教会政策)をとった。しかし、ザクセン朝が2代にわたったことや、混乱するイタリア支配をめぐる駆け引きが続く中で、オットーがいち早くイタリア遠征(951年)を行い王位を獲得したことは、諸太公の反乱を招いた(953〜954)。この危機を救ったのが、東方からのマジャル人の襲来であった。異民族の襲来を前に太公軍は結束し、オットーの指揮下にレヒフェルトの戦い(955)で決定的な勝利を収めたのである。これにより、半世紀ほど続いたマジャル人の西ヨーロッパ侵入は終わりを告げた。さらにオットーは蜂起したスラヴ人も撃破したため、国内における彼の地位は不動のものとなった。

961年、オットーはヨハネス12世(ローマ教皇)の救助要請に応えて2度目のイタリア遠征を行ない、翌962年教皇よりローマ皇帝の帝冠を受けた。ここに、いわゆる神聖ローマ帝国が誕生した(オットー1世(神聖ローマ皇帝))。ザクセン朝はその後3代続き、11世紀前半に再びフランケン朝(ザリエル朝)に取って代わられるが、その基本政策に大きな変化は見られなかった。

神聖ローマ帝国

オットー1世(神聖ローマ皇帝)の戴冠以降、19世紀初頭までのドイツ国家の名称を指す。だが、オットー1世自身は「尊厳なる皇帝」とのみ称し、その後12世紀半ばに「神聖帝国」の名称が、また13世紀後半になって「神聖ローマ帝国」の名称が正式に登場した。そして、15世紀半ば以降は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という呼称が一般化した。つまり、神聖ローマ帝国とは、聖なるローマ教会の世界に対応した、皇帝の超国家的支配の理念的表現であった。

現実的にはドイツで王となったものがローマ教皇の戴冠を受け、皇帝としてドイツおよびイタリアに君臨する仕組みをさした。そのため、ドイツ国王は常にイタリア政策を余儀なくされ、ドイツ国内の統治に専念することができなかった。だが、イタリア政策の結果もブルグンド、北イタリアないしはシチリアを一時的に支配するにとどまり、むしろドイツ国内の分権的傾向(領邦国家化)を一層推し進めることになった。

詳説世界史研究

略年表

  • 919年 父ハインリヒがドイツ王国ザクセン朝初代国王に即位。
  • 929年 エドワード長兄王(イングランド王)の娘エドギタと結婚。
  • 936年 父ハインリヒ1世(ドイツ王)死去により東フランク王に即位。
  • 938年〜934年 反乱により異母兄タンクマール戦死。弟ハインリヒを修道院に幽閉する。
  • 947年 弟ハインリヒを許し、バイエルン大公の地位を与える(ハインリヒ1世(バイエルン公))。
  • 951年 ロターリオ2世(イタリア王)の未亡人で、イタリア対立王だったルドルフ2世(ブルグント王)の娘ブルグントのアーデルハイトと結婚。イタリア王を名乗る。
  • 953年 息子リウドルフ(シュヴァーベン大公)と娘リウトガルトの夫コンラート(ロートリンゲン公)(赤毛公)首謀の、王国全土を巻き込む反乱が勃発。オットー1世が勝利し、息子リウドルフのシュヴァーベン大公位とコンラートのロートリンゲン大公位を剥奪。親近者による統治の脆弱さを知り、聖職者による統治政策に切り替える。
  • 955年 レヒフェルトの戦い 国内に侵入したマジャル人との戦いで、蟄居処分中であった女婿コンラート赤毛公が救援に駆けつけたことでマジャル人達を撃退することに成功する。コンラート赤毛公はこの激戦の中で戦死したが、このレヒフェルトの戦いの勝利でオットー1世は「キリスト教国を異教徒マジャルの禍から救った聖なる戦士」として称えられ、ヨーロッパ中の注目を浴びるようになる。
  • 960年 イタリアの統治を委せていたベレンガーリオとアダルベルトの父子がヨハネス12世(ローマ教皇)を攻撃し、教皇はオットー1世に救援を要請する。
  • 961年 オットー1世はアデライーデとの子でわずか7歳のオットー2世を自らの共同統治者として戴冠させると(ハインリヒは954年に夭折)、再びイタリアへ遠征し、ベレンガーリオ父子を成敗した。
  • 962年 ローマにおいて教皇から皇帝の冠を授けられた。「神聖ローマ帝国」の国号が使われ出したのは200年後の13世紀であるが、世界史ではこの時をもって神聖ローマ帝国の誕生としている。また800年のカール大帝の戴冠をもって神聖ローマ帝国成立とする見方もある。
  • 967年 オットー1世(神聖ローマ皇帝)は、息子オットー2世を共同皇帝に任命し、ヨハネス1世ツィミスケス(東ローマ皇帝)の姪テオファヌを妃として迎えた。
  • 968年 オットー1世(神聖ローマ皇帝)は、マクデブルク大司教座の設立に着手する。ハルバーシュタット司教区から独立して大司教区となり、ハーフェンブルク・ブランデンブルク・マイセン・メルゼブルク・ツァイツがその属司教区となった。
  • 973年 最も気に入っていたといわれるテューリンゲンのメムレーベン宮殿で61年の生涯を閉じた。亡骸はマクデブルクへ運ばれ、エドギタの隣に葬られた。

帝位はオットー2世(神聖ローマ皇帝)が継承したが、1002年にオットー3世(神聖ローマ皇帝)が急死して直系が断絶、1024年に帝位を継いだ弟ハインリヒの孫のハインリヒ2世(神聖ローマ皇帝)も子の無いまま死去、ザクセン朝は断絶した。ハインリヒ2世(神聖ローマ皇帝)の後を継いで皇帝に即位、ザーリアー朝を開いたコンラート2世(神聖ローマ皇帝)はコンラート赤毛公とリウトガルトの曾孫である。

子女

妻 エドギタ

  • リウドルフ(シュヴァーベン大公) (930年〜957年) – シュヴァーベン大公ヘルマン1世の娘イーダと結婚し、シュヴァーベン大公位を継ぐ。
  • リウトガルト (931年?〜953年) – 947年にロートリンゲン公コンラート赤毛公と結婚。曾孫は皇帝コンラート2世(神聖ローマ皇帝)として即位。

妻 ブルグントのアーデルハイト

  • ハインリヒ (952年〜954年)
  • ブルーノ (953年)
  • マティルデ (954年〜999年) – クヴェードリンブルク修道院長
  • オットー2世(神聖ローマ皇帝) (955年〜983年) – 神聖ローマ皇帝

スラブ人女性

  • ヴィルヘルム (929年〜968年) – マインツ大司教(954年〜968年)

参考 Wikipedia

オットー1世
神聖ローマ帝国皇帝系図

フランク王系図

フランク王系図
フランク王系図 ©世界の歴史まっぷ

同時代の人物

平将門(?〜940)

東国の桓武平氏の一族。935年(承平5)下総を拠点に承平の乱をおこし関東の大半を征服、新皇と称した。だが東国の武士団の平貞盛、藤原秀郷らによって鎮圧される。

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