オルレアン包囲戦
オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク (1886–1890年 ©Jules Eugène Lenepveu作)

オルレアン包囲戦


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オルレアン包囲戦 A.D.1428〜1429

イングランドとフランスの百年戦争においてターニングポイントとなった、フランスのオルレアンで1428年から1429年にかけて起きた戦闘。この包囲戦は、ジャンヌ・ダルクの主要な軍事行動における最初の勝利であり、1415年にアジャンクールの戦いで敗れた後のフランスにとって、最初の大きな勝利であった。この包囲戦の結果、その後のイングランドの軍事力は下降線となっていった。

オルレアン包囲戦

オルレアンはイングランド、フランスの双方にとって、戦略的にもシンボルとしても重要な街であった。現代の一致した意見としては、仮にオルレアンが陥落していたならば、イングランドの摂政ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターにより、フランス全土を征服するというヘンリー5世の野望が実現されていたというものである。半年間にわたりイングランドが優勢であったが、ジャンヌ・ダルクの到着後9日間で、イングランドによる包囲は崩壊した。

データ

年月日:1428年10月12日 – 1429年5月8日
場所:フランス、オルレアン
結果:フランスの決定的な勝利
交戦勢力

イングランド王国

フランス王国

スコットランド王国
指導者
第4代ソールズベリー伯
第4代サフォーク伯
第7代タルボット男爵
ウィリアム・グラスデール
ジャン・ド・デュノワ
ジャンヌ・ダルク
ジル・ド・レ
ジャン・ドゥ・ブザック
ラ・イル
戦力
5,000人 軍人:6,400人
武装市民:3,000人
被害者数
4,000人以上 2,000人

オルレアンはフランス北中部のロワール川沿いの町である。包囲戦の際、オルレアンはフランス王位に忠誠を誓っていた都市の中で、最北に位置していた。イングランドとその同盟国であったブルゴーニュ公国は、パリを含めて、フランス北部の残りの地域を支配していた。主要河川沿いに位置していたオルレアンの場所は、イングランドにとってフランス中央部へ軍事行動をするための最後の障害となっていた。イングランドは既にフランスの南西部の海岸地帯も支配していた。

アルマニャック派とブルゴーニュ派

アルマニャック派

シャルル6世の甥のオルレアン公シャルル1世は、アルマニャック派の長であり、トロワ条約を拒絶し、フランス王として戴冠していないシャルル王太子(シャルル7世)の主張を支持していた。

トロワ条約

右図:フランス王国の領域。

ブルゴーニュ派

フランス国内でアルマニャック派と対立するブルゴーニュ派は、1427年、イングランドとの同盟関係を更新した。パリ南西のオルレアネ地域は、ロワール川を支配でき、西部におけるイングランド軍と東部におけるブルターニュ軍の円滑に結びつけるために重要だった。

右図:ピンクのイングランド王国領と紫のブルゴーニュ公国領。

1420年頃の勢力範囲地図
1420年頃の勢力範囲地図 ©世界の歴史まっぷ

サン・ルー砦

1429年5月4日
オルレアン攻略の総司令官・ジャン・ド・デュノワは、東側のイングランドの砦であるサン・ルー砦に対して、モンタルジとジアンの軍隊と共に攻撃した。ジャンヌ・ダルクは出遅れて攻撃に加わり、数時間で占拠した。
1429年5月5日
作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。
ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功する。

参考 Wikipedia

オルレアン包囲戦に関連する人物の系図(一部)

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トロワ条約

系図(全体):

百年戦争前後のイングランドとフランスの君主一覧と系図

オルレアン包囲戦が登場する作品

ジャンヌ・ダルク

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