カロリング朝 (751年〜〜987年) フランク王国の宮宰カロリング家のピピン3世(小ピピン)がメロヴィング朝を廃して開いた王朝。
- 751年: ピピン3世 ローマ教皇の支持下でフランク国王となる
- 756年: ピピンの寄進 ランゴバルド王国を倒し領地をローマ教皇へ寄進しローマ教皇領が成立する
- 800年: カールの戴冠 カール大帝はローマ教皇からローマ帝国(西ローマ帝国)帝冠を授かる。
- 843年: ヴェルダン条約 三国分裂
- 911年: メルセン条約
- 911年: 東フランク王国滅亡, 950年: 中フランク王国滅亡, 987年: 西フランク王国滅亡
目次
カロリング朝

フランク王国の発展とイスラームの侵入

ローマ・カトリック教会の成長
313年、帝政末期のローマではキリスト教が公認され、392年に国教化されるが、そのころ正統アタナシウス派の教義に従うカトリック教会には、5つの有力教会(五本山)があった。東西教会の分裂
このうちローマ教会は帝国の首都に位置することと、使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張した。 ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇(法王)と尊称された。 しかし、330年にコンスタンティノープルへの遷都が行われ、476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノープル総主教は東ローマ帝国皇帝の権威を後ろ盾にローマ教会の首位性を否定するようになった。グレゴリウス1世(ローマ教皇)とベネディクト派
こうして両教会の首位世をめぐる対立が激化する中で、グレゴリウス1世(ローマ教皇)は北からのランゴバルド人の圧力に対抗しつつ、東ローマ帝国皇帝の支配から離脱しようと試みた。そのため、カトリックのフランク人に接近するとともに、他のゲルマン諸部族への布教に努力し、西ゴート人やアングロ・サクソン人の改宗に成功した。 その布教活動の中心となったのは、教皇の保護をうけたベネディクト派の修道士であった。 このベネディクト派は6世紀前半、中部イタリアのモンテ・カッシーノに修道院を創設し、「祈り、そして働け」に要約される戒律を定めて、修道院運動の推進と民衆の教化に努めたヌルシアのベネディクトゥス(480〜547)に由来する。 ベネディクト派修道院は、アイルランド修道院とならんで西欧キリスト教世界の形勢に大きな役割を果たした。聖像崇拝論争
東西両教会の対立を深めたもうひとつの要因に、聖像崇拝論争がある。 元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要から、ローマ教会は聖像(キリストや聖者の画像・彫像)の使用を容認した。しかし、東ローマ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、また皇帝専制の障害となる修道院勢力が聖像崇拝派であったことなどから、726年、東ローマ帝国イサウリア朝初代皇帝レオン3世(717〜741)は聖像禁止令を発布した。 その結果、ローマ教会は東ローマ帝国にかわる政治勢力を新たに求めるようになった。ピピンの寄進
そこに登場したのがフランク王国の宮宰カール・マルテルである。 カール・マルテルはイスラーム軍を撃退し、フランク王国の実質的な支配者となっていたが、メロヴィング王家にとってかわるためになんらかの権威が必要であった。 また、ランゴバルド王国の南下に苦しむローマ教皇も、有力な保護者を待ち望んでいた。 そこで751年、ピピン3世(小ピピン)がクーデターにより即位すると、教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてイタリア遠征をおこない(754、756)、ランゴバルド人を討って領土を奪い、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇に献じた。このいわゆる「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。カール大帝

ピレンヌ・テーゼ マホメットとシャルルマーニュ
ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862〜1935)は、中世ヨーロッパ世界の成立を、8世紀のイスラーム勢力による地中海制覇の結果ととらえ、古代地中海文化と中世文化との断絶を強調する命題(テーゼ)を提起した。 このピレンヌ・テーゼは学会に大きな衝撃を与え賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否についての決着はみていない。 「イスラームによる地中海の閉鎖とカロリング家の登場との同時性には、単なる偶然の戯れ以上のものを見ないわけにはいかない。事態の全貌を観察するならば、前者と後者の間には明瞭に結果に対する原因の関係が認められる。・・・・・・イスラームなくしては、疑いもなくフランク帝国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることはできないであろう。古代から中世へ―ピレンヌ学説とその検討 (1975年) (歴史学叢書)より
フランク王国の分裂
フランク人は慣習的に分割相続制をとっていたため、王国は常に分裂の危機をはらんでいた。カール大帝には3人の男子があったが、第1子・第2子はすでに亡く、814年カール大帝の死とともにフランクの領土と帝位は第3子ルートヴィヒ1世(敬虔王)に継承された。
だが、ルートヴィヒ1世にはロタール1世・ピピン1世・ルートヴィヒ2世の他に、2度目の后との子シャルル2世(のちの禿頭王)がおり、ルートヴィヒ1世がこの末弟を偏愛したことから、3人の兄たちの反乱を招いた(829年〜833年)。こうした混乱の中で、838年にピピン1世、840年に父帝ルートヴィヒ1世が相次ぎ亡くなると、長兄ロタール1世に対しルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合して戦い、843年のヴェルダン条約で帝国は3つに分割された。
その結果、ロタール1世は帝位と中部フランク及び北イタリアを、ルートヴィヒ2世は東フランクを、シャルル2世は西フランクをそれぞれ獲得した。
しかし、855年にロタール1世が亡くなると、ロタール1世の子とルートヴィヒ2世、シャルル2世の間で争いが再燃し、結局870年のメルセン条約で、北イタリアを除く中部フランクは東西フランクに併合されることになった。こうした分割と統合を経て、のちのイタリア・ドイツ・フランスの基礎が作られたのである。


フランク王国の変遷とローマ教会
カロリング朝歴代王
- ピピン3世(752年 – 768年)
- カールマン(768年 – 771年(ブルグント、アレマニア、南アウストラシア))
- カール大帝(シャルルマーニュ)(768年 – 814年(最初はネウストリア、アキテーヌ、北アウストラシアのみ)、774年にランゴバルト王、800年に皇帝。)
- メーヌ公:カール(790年 – 811年)
- イタリア:ピピン(781年 – 810年);ベルナール(810年 – 817年)
- アキテーヌ:ルートヴィヒ1世(781年 – 814年)
- ルートヴィヒ1世敬虔王(813年 – 814年カール大帝と共同統治、814年 – 840年単独統治)
- イタリア:ロタール1世(817年 – 855年)
- バイエルン:ルートヴィヒ2世(817年 – 843年)
- アキテーヌ:ピピン1世(817年 – 838年);シャルル1世(838年 – 855年)、対立王ピピン2世(838年 – 851年)
フランク王系図
参考