カール大帝
カール大帝 (アルブレヒト・デューラー画/Germanisches Nationalmuseum蔵) ©Public Domain

ピピン3世

ルートヴィヒ1世

ピピン(イタリア王)

カール大帝 Karl(独), Charlemagne(仏) A.D.742〜A.D.814

フランク王国カロリング朝第2代国王(在位:768〜814, 768〜771は弟カールマンと共同統治)、西ローマ帝国皇帝(在位:800〜814)。
カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランク王国の最盛期を現出。ローマ教皇より西ローマ皇帝の冠を授けられ(800年カールの戴冠)、フランク王国は東ローマ帝国から独立した。フランス語でシャルルマーニュ、カール1世(シャルル1世)ともよぶ。

カール大帝

742〜814 ピピン3世の子。フランク王国最盛期の王(在位768〜814)。ランゴバルド王国を滅ぼし、ザクセン人やアヴァール人、イスラーム勢力を打倒して西ヨーロッパの主要部分を統一した。巡察使の制度を確立して伯を監督し、教会組織を統治や伝達に利用した。800年ローマ教皇レオ3世により戴冠され、西ローマ帝国復活の立役者となった。

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地中海に出現した2人目の皇帝

父ピピン3世の死とともに弟カールマンとの共同統治を始めるが、弟の死によって単独のフランク王となる。四方に兵を向け、東方ではザクセン人に対して遠征を繰り返し、彼らにキリスト教への改宗を強制した。南東ではバイエルンを併合したのをはじめ、ドナウ川中流域でアヴァール人を討ち破った。南方ではランゴバルド王国を併合し、西方ではイベリア半島北部にスペイン辺境伯領を建設した。800年のクリスマスの日には教皇レオ3世から戴冠され、西ローマ皇帝となっている。文化の興隆にも力を入れ、古典ローマ文化とキリスト教文化、ゲルマン文化の融合に努めた。

ローランの歌:778年、大帝はイベリア半島に遠征したが、その帰途、後衛部隊がロンスヴァルの岬で地元民から攻撃を受けた。この話をもとに、のちに武勲詩『ローランの歌』がつくられた。

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「西ローマ帝国を復活」させヨーロッパ社会の基礎を築く

遠征に継ぐ遠征で、西ヨーロッパの広範囲を統一したフランク王である。ドイツ東部・南部を併合後、教皇の指示でイタリアのランゴバルド王国を征服(教皇に寄進)、イベリア半島ではイスラームを撃退、東方ではモンゴル系アバール人を征討、大領域を支配した。

カール大帝は、暗殺から逃れたローマ教皇レオ3世を保護した恩ということで、西ローマ皇帝の冠を授けられた(カールの戴冠)。
このため、以後フランク王国は「ゲルマン人によるローマ帝国」という見方がなされ、フランク王が帝権、教皇が教権を分担する図式ができあがった。こうしてゲルマン・ローマ・キリスト教文化が一体となったヨーロッパ文化が作られることになった。

カール大帝は、学問、教育、芸術の振興にも力を入れ、アーヘンの宮廷に文化人を集めた。文化の興隆は「カロリング・ルネサンス」と呼ばれた。この時代、各地に置いた「伯」に地方行政を担わせ、封建制度が進行した。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

カール大帝(シャルルマーニュ)

小ピピンの死後(768年)、その子カールとカールマンの兄弟が王国を2分しておさめたが、771年のカールマンの死とともにカール大帝(位768〜814)が全フランク王国を統一支配することになった。カール大帝は積極的な対外遠征を行い、領土の拡大をはかった。まず南方のイタリアでは、ランゴバルド人が再び勢力を強め教皇を圧迫していたためこれを討ち、ランゴバルド王国を滅ぼした(774)。そして、イタリアの北半を併合するとともに、中部イタリアを教皇領として確認した。また北方では772年以降サクソン人(ザクセン人)に対して遠征を繰り返し、804年に征服した。東方ではドナウ川上流で土豪化したバイエルン公国を攻め、788年これを併合するとともに、さらに791年以降ドナウ川中流のスラヴ人やアジア系アヴァール人とも戦い、その地を併合していった。

カール大帝の西ローマ帝国地図
カール大帝の西ローマ帝国地図 ©世界の歴史まっぷ

アヴァール人は中央アジアのモンゴル系遊牧民で、中国の柔然との同族説もある。6世紀に中央ヨーロッパに移動し、ビザンツ帝国やフランク王国に侵入をくりかえした。

西方では778年イベリア半島のイスラーム勢力を攻めてエブロ川以北の地を占領し、のちスペイン辺境伯領を設置した(795)。こうして、8世紀末までに西ヨーロッパの主要部分を統一することに成功し、フランク王国は東ローマ帝国と肩を並べる強国となった。

この動きを見て、ローマ教会はカール大帝の西ローマ帝国戴冠を計画した。カール大帝は東ローマ帝国との不和を恐れたものの、広大な領土の統治のためにローマ皇帝の権威も必要であった。レオ3世(ローマ教皇)(795〜816)は反対派の攻撃をカール大帝の保護で乗り切ると、800年、ローマのサン・ピエトロ大聖堂において、カールにローマ皇帝の冠を授与した。ここに、かたちのうえで西ローマ帝国が復活したのである(カールの戴冠)。

まもなく東ローマ帝国との関係が悪化すると、カール大帝はイスラム帝国アッバース朝第5代ハールーン=アッラシードと提携して対抗し、やがて東ローマ帝国もカール大帝の西ローマ帝国皇帝位を承認することになった(812)。

ローマ教会とフランク王国流れ図
ローマ教会とフランク王国流れ図 ©世界の歴史まっぷ
カール大帝
カールの戴冠(ジャン・フーケ画/1455年-1460年) ©Public domain

国内の統治にあたり、カール大帝は人口数万人ごとに管区を設定し、国王直属の(グラーフ)をおいて軍政両面を担当させた。また、伯職については、その世襲を禁じて土着化を防止するとともに、臨時に巡察使を派遣してこれを監視させ、中央集権体制の確立に努めた。しかし、征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法が残されており、カールのたびたびの勅令にもかかわらず王国(帝国)の分権的傾向を完全に抑えることはできなかった。そのことを示すもののひとつに首都の不在がある。アーヘン、インゲルハイムなどに宮廷が築かれたが、カールは1カ所に落ち着くことはなく絶えず領内を移動して、伯との個人的結びつきを確認することが必要であった。それだけ、社会の封建化が進みつつあったのである。

カールはこのほか道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めたりしたが、特に注目されるのは文教政策である。聖職者を養成するために、各地の修道院や教会に付属学校の設置を命じ、さらに聖職者の一般的教養を高めるため、諸国から高名な学者を招いてラテン語と古典文化の研究に当たらせ、カロリング・ルネサンスを現出させた。

ブリタニアからはアルクイン(735〜804)イタリアからはピサのペトルス(?〜799)やパウルス・ディアコヌス(720頃〜797頃)、スペインからはテオドゥルフ(793〜835)などがつぎつぎにフランクの宮廷を訪れ、古典文化の興隆がみられたため、こう呼ばれる。

このように、カールの西ローマ帝国は、単純な古代帝国の復活ではなかった。むしろそれは、古代以来の古典文化、キリスト教(ローマ・カトリック)、ゲルマン的要素の3者が融合した全く新しい世界、すなわち西ヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった。

ピレンヌ・テーゼ マホメットとシャルルマーニュ

ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862〜1935)は、中世ヨーロッパ世界の成立を、8世紀のイスラーム勢力による地中海制覇の結果ととらえ、古代地中海文化と中世文化との断絶を強調する命題(テーゼ)を提起した。
このピレンヌ・テーゼは学会に大きな衝撃を与え賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否についての決着はみていない。

「イスラームによる地中海の閉鎖とカロリング家の登場との同時性には、単なる偶然の戯れ以上のものを見ないわけにはいかない。事態の全貌を観察するならば、前者と後者の間には明瞭に結果に対する原因の関係が認められる。・・・・・・イスラームなくしては、疑いもなくフランク帝国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることはできないであろう。」

古代から中世へ―ピレンヌ学説とその検討 (1975年) (歴史学叢書)より

カール大帝の人となり

伝記作者アインハルト(エギンハルドゥス)の『カール大帝伝』によれば、大帝は小ぶとりの大きな身体(身長195㎝)をしており、馬術・狩猟・水泳などに長けていた。特に水泳は得意で、アーヘンの宮廷に温水プールを設け従臣たちと泳いだが、帝の右にでるものはなかったという。服装も簡素で、儀式のときをのぞき、ローマ風の正装は好まなかった。また文字の読み書きはできなかったが、文化人を大いに保護し、古典研究を奨励した。

学問と大学

中世の学問を代表するのが神学である。「哲学は神学のはしため」ということわざが象徴するように、中世には古代に学問の中核を占めた哲学よりも、キリスト教の教理や信仰を研究する神学の方が上位を占めた。古代のラテン語神学は、5世紀初めの教父アウグスティヌスにより大成されたが、中世の神学はアウグスティヌスの思想を基盤に、スコラ学として発展した。スコラとは学校の意味で、フランク王国のカール大帝がアーヘンの宮廷や教会・修道院などに付属の学校を建て、アルクィン(735〜804)ら諸国の学者を集めて学問を奨励したことに始まる。スコラ学は11世紀のカンタベリ大司教アンセルムス(1033〜1109)を経て、13世紀にドミニコ派のトマス・アクィナス(1225頃〜1274)により大成された。トマスは、アリストテレス哲学を踏まえ、神学を中心にあらゆる学問の体系化を目指し、『神学大全』を著した。

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ゲルマン諸国家

ランゴバルド人はライン・エルベ両河の間に定住していたが、ほかより遅れて6世紀半ばすぎに移動を始めた。アルボイン(アルボイーノ)王のもとで東ゴート滅亡後の北イタリアに入り、パヴィアを都にランゴバルド王国を建設した。8世紀後半にはフランク王国と激しく争い、カール大帝により滅ぼされた。その後も北イタリアの地はロンバルディアと呼ばれて現在に至る。

568年のヨーロッパ地図
568年のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

東ヨーロッパ世界の成立

中期ビザンツ帝国

8世紀の末、エイレーネー(東ローマ女帝)は聖像崇拝を復活し、その後一時論争が再燃したものの、843年には聖像崇拝が正当と認められ論争は終わった。これにより、教義面でのローマ教会との関係は修復されたが、1世紀におよぶ対立の間にローマ教会は次第にフランク王国に接近するようになり、カールの西ローマ皇帝戴冠(カール大帝)によってビザンツ皇帝から事実上自立していった。

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の発展

ヨーロッパのイスラーム文明

カール大帝が神の戦士としてサラセン人に懲罰を加える『ローランの歌』には、当時のキリスト教徒の意識が如実に示されている。近代にいたるまでのヨーロッパでは、ムハンマドを好色な背徳者とし、イスラーム教を偽りの宗教とみなす考えが一般的なイスラーム認識であった。

アーヘン大聖堂

カール大帝
アーヘン大聖堂 Source: Wikimedia Commons

カール大帝は、786年にアーヘンの宮殿教会の建設を始めた。814年にカール大帝が死ぬと彼は自身の大聖堂に埋葬され、彼の骨はいまも特別の神殿に保存されている。「アーヘン大聖堂」として世界遺産に登録されている。

フランク王系図

フランク王系図
フランク王系図 ©世界の歴史まっぷ
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同時代の人物

道鏡

?〜772 法相宗の僧。孝謙太上天皇の病を癒し、信任を得て台頭した。仲麻呂の敗死後、765年に太政大臣禅師となり、仏教政治を行う。宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年、下野薬師寺に追放された。

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