ガイウス・ユリウス・カエサル (Gaius Julius Caesar) (紀元前B.C.100〜紀元前B.C.44) 共和政ローマの政治家、軍人。マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治とローマ内戦をへて、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となり、後の帝政の基礎を築いたが、共和政支持派によって命を奪われる。
目次
ガイウス・ユリウス・カエサル
予言された英雄の最後・悲劇の3月15日

海賊に拿捕:修辞学を学ぶためにギリシアに向かう途中、若きカエサルはキリキアの海賊に捕らえられ、40日間拘留された。海賊は身代金20タレントを要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ったという。
独裁官カエサルが築いた新しいローマの礎
紀元前70年代、内憂外患に悩むローマは、権力闘争に明け暮れ混乱状態に陥っていた。
才知に長け行動力あふれるカエサルは、政治の世界に飛び込み、順調に出世いを遂げていく。ガリア征服を成し遂げ敵将グナエウス・ポンペイウスを破ったカエサルの前に立ちはだかる者はもう誰もいなかった。

「ブルートゥス、お前もか」裏切られた信頼

18世紀にイタリア人の画家ヴィンチェンツォ・カムッチーニによって描かれた「カエサルの暗殺」。皮肉なことに、彼が殺されたのは、ポンペイウスの像の下だった。
暗殺の首謀者の一人マルクス・ブルートゥスは、カエサルの長年の愛人セルウィリアの子供で、彼の息子ではないかもと噂されていた。いわば、彼が強い信頼を寄せ、息子のように目をかけていた人物が、暗殺のリーダーであった。「ブルートゥス、お前もか」最後にカエサルが、こういったのも無理もなかろう。 ローマ市民から絶大な支持を得たカエサルだったが、身近な者たちに裏切られたのだ。それはひとえに、英雄カエサルに対する妬みや警戒心のなせる技であった。「カエサルは、自分が王になりたいという野望を抱いている」 彼の野心によってローマの共和政が崩れるのではないかと危惧した者たち約60人が、暗殺に手を下したのだった。生前に「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と述べていたカエサルは、理想どうりの最後を遂げた。賽は投げられた:紀元前49年、軍を率いてローマに入ってはいけないという「元老院最終勧告」を無視して、イタリアの北の国境ルビコン川を軍隊とともに渡ることは、国法に反した。だがもう後戻りできない。部下を従えたカエサルは、ローマへ進軍したときに放った言葉。
参考
カエサル年表
- 紀元前100年頃 – ローマで生まれる。
- 紀元前82年 – スッラがローマへ侵攻。カエサル、キリキアへ逃れる。
- 紀元前78年 – スッラ死去。カエサル、ローマへ帰還。
- 紀元前69年 – クァエストルに選出され、ヒスパニアへ赴任する。
- 紀元前65年 – アエディリスに選出。
- 紀元前63年 – 最高神祇官選挙で対立候補を破って当選。カティリナ事件。
- 紀元前62年 – プラエトルに選出。
- 紀元前61年 – プラプラエトル格でヒスパニア総督に選出。
- 紀元前59年 – コンスルに選出(同僚はマルクス・カルプルニウス・ビブルス)。三頭政治の開始。
- 紀元前58年 – プロコンスル格でガリア地区の総督に選出。ガリア戦争が勃発(紀元前51年まで)。
- 紀元前56年 – ルッカ会談。
- 紀元前53年 – クラッスス戦死、三頭政治が事実上崩壊。
- 紀元前52年 – アレシアの戦い。
- 紀元前49年 – ルビコン渡河。ローマ内戦の開始。
- 紀元前48年 – ファルサルスの戦い。ポンペイウス、エジプトで殺害。
- 紀元前46年 – タプススの戦い。初の凱旋式、10年期限のディクタトル(独裁官)に選出。
- 紀元前45年 – ムンダの戦い。ローマ内戦が事実上終結。終身独裁官に選出。
- 紀元前44年 – ローマ元老院議場内で暗殺。
ローマ共和政末期の政治家,将軍。
若年のときから軍務で名を挙げ,民衆派に属し,前68年財務官(クアエストル),前65年按察官(アエディリス),前63年大神官(終身),前62年法務官(プラエトル)などを歴任。 前60年,ポンペイウス,クラッススと第1次三頭政治を結成,前59年に執政官(コンスル)として政治,社会改革を行う。 前58年から前50年までガリア総督として諸部族を討ってこの地を平定し,アルプスの北をローマの版図に繰り入れた(ガリア遠征)。 元老院の保守派と対立,前49年1月から内乱に突入し,地中海世界各地を歴戦のすえこれを撃破し,独裁官(ディクタトル)となる。 世界帝国的な視野のもと,社会的,政治的な改革を実行したが,共和政的な伝統を踏みにじるものとして,ブルートゥス一派に前44年3月15日暗殺された。 雄弁家,文人としても第1級。その作品『ガリア戦記』『内乱誌』などが現存する。参考
ローマ帝国領土
ガリア戦争

ガリア戦記
ガイウス・ユリウス・カエサルが自らの手で書き記した、「ガリア戦争」の遠征記録である。続篇として、ルビコン渡河以降の「ローマ内戦」を記録した『内乱記』がある。 指揮官カエサル自らが書いた本書は、もともとは元老院への戦況報告の体裁を取っていたと考えられ、文中において自己に言及するときは「カエサル」もしくは三人称で書かれていることが特徴である。また文中の所々にガリア人・ゲルマン人の風俗についての記述がある。構成
本書は全8巻からなり、紀元前58年から同51年にかけて8年間にわたるガリア、ゲルマニア、ブリタンニアへの遠征について記述している。なお、第8巻のみカエサルでは無く、カエサルと同時代のアウルス・ヒルティウスが執筆している。- 第1巻(紀元前58年) – ヘルウェティイ族との戦闘、アリオウィストゥス率いるゲルマニア人との戦い
- 第2巻(紀元前57年) – ガリア北東部(ベルガエ人たちの居住地)への遠征
- 第3巻(紀元前56年) – 大西洋岸諸部族との戦争
- 第4巻(紀元前55年) – 第一次ゲルマニア遠征、第一次ブリタンニア遠征
- 第5巻(紀元前54年) – 第二次ブリタンニア遠征、ガリア遠征初の大敗
- 第6巻(紀元前53年) – 第二次ゲルマニア遠征
- 第7巻(紀元前52年) – ウェルキンゲトリクス率いるガリア人の大反攻、アレシアの戦い
- 第8巻(紀元前51年) – 戦後処理。本巻のみアウルス・ヒルティウスの著
ディウウス・カエサル神殿
ディウウス・カエサル神殿は、紀元前29年8月29日に、アクティウムの海戦に勝利したオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)が神君カエサルを記念して建てたプロスタイル式(前柱廊下式)の神殿。日本語で神君カエサル神殿と表記されることもある。フォルム(中央の広場)の東に面しており、レギア、カストルとポルックス神殿、バシリカ・アエミリアに囲まれた場所にあり、カエサルの遺体が火葬された場所に建てられている。神殿の一段上がったところはロストラ(演壇)が作られており、アクティウムの海戦で捕縛した船の船首で飾られていたという。この神殿はまた、カエサルの死後(の紀元前44年)に出現した彗星を祀るものでもあり、この彗星はカエサルの魂であるとも、初代ローマ皇帝アウグストゥスの出現を表すものとも言われていた。世界遺産「ローマの歴史地区と教皇領、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂」に登録されている ディウウス・カエサル神殿 – 世界の歴史まっぷ世界遺産「ローマの歴史地区と教皇領、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂」
[put_wpgm id=14]ユリウス・クラウディウス朝家系図
カエサルの妹・小ユリアの子孫からローマ帝国皇帝・アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロが生まれる。カエサルが登場する作品
ザ・ローマ帝国の興亡 第2話 シーザー

DVD
ROME[ローマ]
![ROME[ローマ]](https://852852.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2016/05/roma-824x309.jpg?lossy=1&strip=1&webp=1)
DVD
スパルタカス

子女
カエサルには多くの愛人がいたが、ただし記録にある限り、子宝にはほとんど恵まれなかった。 最初の妻・コルネリア ルキウス・コルネリウス・キンナの娘。- ユリア(ガイウス・ユリウス・カエサルの娘) グナエウス・ポンペイウスと結婚、紀元前54年死去
- カエサリオン (諸説あり)
- クレオパトラ 紀元前44年〜 血筋は少なくとも16世紀まで存続。
同時代の人物
倭のクニ
中国の歴史書によると、1世紀中頃の日本は「倭のクニ」、日本人は「倭人」と呼ばれていた。北九州を中心とした西日本に、100余りの小国に分かれ、中国とかかわりをもっていた。