ギリシア人 ギリシア人の南下と定住地図
ギリシア人の南下と定住地図 ©世界の歴史まっぷ

ギリシア人


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ギリシア人 Greeks

インド=ヨーロッパ語系民族。移動の第一波として前20世紀頃、アカイア人がバルカン半島に南下し、のちにミケーネ文明を成立させた。移動の第二波として前12世紀頃ドーリア人が南下し、ミケーネ文明の滅亡とあいまって、ギリシア各地に人々は移動・定住した。定住後のギリシア人は、方言によって、東方方言群(イオニア系・アイオリス系)と、西方方言群(ドーリア系)に分類される。

ギリシア人

インド=ヨーロッパ語系民族。移動の第一波として前20世紀頃、アカイア人がバルカン半島に南下し、のちにミケーネ文明を成立させた。移動の第二波として前12世紀頃ドーリア人が南下し、ミケーネ文明の滅亡とあいまって、ギリシア各地に人々は移動・定住した。定住後のギリシア人は、方言によって、東方方言群(イオニア系・アイオリス系)と、西方方言群(ドーリア系)に分類される。

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オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

地中海世界ではオリエントの影響下に、紀元前2000年ころより強大な王権をもつエーゲ文明が花開いた。その崩壊後、ギリシア人はポリスと呼ばれる都市国家を発達させ、紀元前5世紀にはアテネに民主政を実現した。ギリシア人はオリエントとことなる人間中心の明るい合理的な文化を生み出した。ギリシアのポリスは、やがて相互の対立をへて衰退し、アレクサンドロス3世の遠征によりオリエントに伝えられたギリシア文化ヘレニズム文化として発展した。

アラム人とフェニキア人

フェニキア人は、前代のカナーン人の一派から発展したのではないかと考えられている。「フェニキア人」とは自称でなく、のちのギリシア人によって呼ばれた名で、語源は特産品の貝紫染料に由来する。

前4世紀後半にティルスがアレクサンドロス3世によって破壊され、東地中海の支配権はギリシア人に奪われたが、西地中海においてはカルタゴの勢力がなお健在であった。フェニキア人の文化史上の功績は、カナーン人の創始したアルファベットの書体が、まだ造形性の強いものであったのを線状文字に改良し、これをギリシア人に伝えて、今日まで伝わる西方系諸文字の源流となった点にある。

バクトリアとパルティア

セレウコス朝は当初バクトリアからアナトリアやシリアまでを領域とし、都市化政策を推進した。イラン地方にも都市建設をおこない、多数のギリシア人を入植させた。しかしやがてセレウコス朝の支配が低下するのにともない、各地の有力家系が王朝をきずいて独立した。

アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

もっとも早く離反したのはアム川上流域のバクトリアで、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立してバクトリア王国(紀元前255年〜紀元前139年)をたてた。その後バクトリア王国は、マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。この王国はギリシア人がたてた国であったため、ヘレニズム文化が栄えた。その文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すことになった。

  • バクトリアとパルティア

ギリシア世界

パルティアとササン朝の文化

パルティアの文化は早くよりヘレニズムの影響を強くうけ、王が「ギリシア人を愛するもの(フィルヘレン)」という称号をおびるほどであった。

地中海世界の風土と民族

この世界には新石器時代から青銅器時代にかけて人々が住んでいたが、やがて東地中海からアフリカなどにセム語系民族が、北方からはインド=ヨーロッパ語系民族が南下して広がった。そのなかでもギリシア人と古代イタリア人(その一部がラテン人)がもっともめざましい役割を果たした。

エーゲ文明
ミケーネ文明
紀元前2000年の少し前ころ、インド=ヨーロッパ語系民族がバルカン半島や小アジアに侵入してきた。彼らがギリシア人の祖先であり、その一部のアカイア人がミケーネなどに王国をつくった。
彼らは丘陵きゅうりょうに石造りの堅固けんごな王の城塞をきずいた。また小アジアに侵入したギリシア人は、クレタ文明の一角をなしていたトロイアをも占領した。
ミケーネ文明地図 エーゲ文明
ミケーネ文明地図 ©世界の歴史まっぷ

元前1200年から紀元前1100年にかけて、アテネなどを例外として王宮は炎上し、諸王国は次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅した。彼らを滅ぼしたのは、この時代に遅れて南下してきたギリシア人の一派ドーリア人たちだと考えられている。しかし最近ではこのほかに、王国内部の反乱や、ちょうどこのころ東地中海に現れてヒッタイトを滅ぼし、エジプトなどを攻撃した「海の民」がミケーネをも滅ぼしたのではないかとする説も出されている。

イギリスの建築家ヴェントリスは1952年、未解読であった線文字Bにギリシア語の音価をあてはめて解読に成功し、初めてミケーネ人が古いギリシア語を用いるギリシア人であったことを明らかにした。

暗黒時代
エーゲ世界では文化的生活が姿を消し、文字も忘れられ、各地に混乱が続いて交易も途絶え、生活は貧しくなった。王国を追われた人々は部族的な小グループをなして移動した。ドーリア人はペロポネソス半島に落ち着いたが、一部はクレタ島やロードス島にも進出した。ドーリア人に追われた他のギリシア人も押されて移動せざるをえなくなり、アイオリス人はボイオティア・テッサリアから小アジア北西岸やレスボス島に、イオニア人はアカイアからアッティカ、さらに小アジア西岸中央部に定着した。
ギリシア人の南下と定住地図
ギリシア人の南下と定住地図 ©世界の歴史まっぷ
ポリスの成立

暗黒時代とはいえ、この時期にギリシア、エーゲ世界には鉄器が普及し、ギリシア語アルファベットも、フェニキア文字を手本に考案された。ギリシア人たちは混乱がおさまるうちに新しい社会の形態をつくりだしていった。

紀元前800年ころ成立したホメロスの叙事詩はトロイア戦争の結末とそのあとのギリシア人たちの帰還の運命をうたっているが、そこに描かれた社会や生活はミケーネ時代のものではなく(たとえば王は宮殿で華やかに暮らしてはおらず、その富も豊かではない。またミケーネ時代には知られなかった鉄器が用いられている。)、暗黒時代からホメロスの時代までの社会をうつしだしているとかんがえられる。

最初のポリスはおそらく小アジアに渡ったギリシア人によってつくられたと思われる。居住に適し、良港のある土地に定着しようとした場合、そこには先住民がいたであろうから、集住して防御的なポリスを営むことが不可欠であったろう。またすでにオリエントでは早くから都市国家が生まれており、ことに東地中海沿岸にフェニキア人が植民市を多数建設していたから、ギリシア人がそれにならったということも推定される。小アジアのポリス建設は速やかにギリシア本土に伝播したものと思われる。

ポリスの形態

1貴族中心のシノイキスモス(集住)アテネなど
2侵入したギリシア人のシノイキスモス。先住民を隷属させるスパルタ
3シノイキスモスの中心市が広い領域の村落を結合し支配するアテネ、スパルタ
4一定地域の小集落がそれぞれ独立したポリスとなるクレタなど
5集落群が穏やかな連合のかたちをとり、中心市が生まれないロクリスなど
6* 古い部族的な村落の集合にとどまりポリスを形成しないマケドニア、テッサリア、アカイアなど
* 6の地域のギリシア人はポリスが衰えてゆく時代に発展を始める。

ポリスは地中海世界に適合的な社会となり、その後もギリシア人の植民活動で増え続け、最大時には1500ほどであったと推定されている。
ポリスは独立の国家で、市民共同体であり、市民は守護神をまつり、共通の宗教意識を基とする強い連帯感をもち、他のポリスとは日常的に戦争をおこない、戦士共同体としての性格がこかった。しかしポリス間の経済的・文化的交流は盛んであり、ギリシア人であることの共通意識は極めて強かった。

それは、ギリシア人がみずからをギリシア語を話す「ヘレネス(英雄ヘレーンの子孫)」と自覚し、多民族を「バルバロイ(聞き苦しい言葉をしゃべる人)」と称して区別したこと、共通の神々と神話、ホメロスなどの詩、神託がえられる神域、競技大会などをどのポリスも共有したことなどに示される。

ギリシア文化

ギリシア人が生み出した文化は、そのはじめにはオリエントやミケーネの影響を強くうけたが、やがて独自の文化をつくりだしていった。それはヨーロパの古典としてのちのちまで深い影響を与え、今なお尊重されている。

紀元前5世紀になると歴史書が現れた。当時知りうる限りの世界中の珍しい風習や言い伝えを集めてペルシア戦争を描いたヘロドトスの『歴史』と、ペロポネソス戦争の歴史を、公正に原因と結果を考察し、演説などを引用しながら実証的、また教訓的に叙述したトゥキディデスの『戦史』が二大史家の名にふさわしく、クセノフォンは敵地から脱出した体験をつづる『アナバシス』や『ソクラテスの思い出』などを著した。現存する中で最も古いローマ史を書いたポリビオスもギリシア人である。

ギリシアの工人が残した壺絵にも優れた美術作品が多い。コリントスや、アッティカの陶器が代表的で神話や戦争・日常生活のさまざまな図柄が描かれた。ギリシア人の歴史を知る上でも壺絵は貴重な資料となっている。

アテネ民主政

スパルタなどでは、奴隷的な隷属農民がいたためにアテネのような購買奴隷制は発達しなかったが、アテネ・コリントスなどの商業が発展したポリスでは生産労働を多くは奴隷に頼った。このように奴隷がギリシアにとっては周辺・近境の異民族から供給されることが当然のことと思われて、ギリシア人たちの異民族への軽蔑の念がいっそう強まり、また農業以外の労働を重要視しない傾向が生まれたのである。

ヘレニズム時代
アンティパトロス朝 プトレマイオス朝 ヘレニズム時代 セレウコス朝 ディアドコイ戦争 紀元前300頃の西アジア地図
紀元前300頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

セレウコス朝シリアは、小アジアの過半とそれより東の広大な地域を支配したが、バクトリア・ソグディアナはまもなく独立し、ペルシア系のパルティアが紀元前3世紀半ばにやはり独立するなど、その領域は縮小し(ユダヤはセレウコス朝の君主神格化に反抗し、マカベア一族の反乱によって紀元前2世紀に独立した。)、国家の制度も整わなかった。しかしアンティオキアやドゥラ・エウロポスなどのギリシア人の都市が文化の中心となった。

アレクサンドロスの東方遠征によってギリシア人とギリシア文化とは一挙に東方の広大な地域に広がった。従ってこれ以後の時代をヘレニズム時代と呼ぶ。ギリシア人・マケドニア人は東方世界ではごく少数であったが、アレクサンドリアなどのギリシア都市を拠点に経済的活動やギリシア文化の伝播に重要な役割を果たした。しかしヘレニズム諸王国ではオリエント以来の専制王権を受け継いで君主の神的権威を強調し、君主礼拝を国民に強制することが多かった。

ヘレニズム文化

東方に移住したギリシア人がギリシア語や芸術、都市的な生活文化を広めたが、これとオリエント伝統文化が融合して新しいヘレニズム文化が生みだされた。

哲学・思想でもポリス的なギリシア人の民族意識が希薄になり、個人主義的な傾向と、民族・国家の粋を意識しない世界市民主義的(コスモポリタン)な風潮が特徴であった。

ローマ世界

エトルリアとローマ

イタリア半島には紀元前2千年紀には東方から移住してきた人々が青銅器文化を営んでいた。バルカン半島にドーリア系ギリシア人が南下した紀元前12世紀頃、やはりインド=ヨーロッパ語系の西方系言語を話すイタリア人もイタリア半島に南下し、定着した。ローマは半島の中央ティレニア海沿岸に定着したイタリア人の一派のラテン人が作った集落の一つから発展していった。
しかしイタリア半島に最初に文明を持ち込んだのは紀元前9世紀頃南イタリアに植民したギリシア人と、半島中央から北部にかけてヴィラノーヴァ文化を生み出したエトルリア人であった。

エトルリア人はギリシア人の影響を受けて紀元前9世紀〜紀元前8世紀にはいくつもの都市を形成した。

キリスト教の発展

キリスト教徒(クリスティアノイ)」という呼び名は、ややのちになって、アンティオキアでおそらくローマ人かギリシア人異教徒によって使われだしたと思われる。

キリスト教徒ははじめはユダヤ人が多く、礼拝や生活面ではユダヤ教のしきたりを守っていた。しかしユダヤ教徒は彼らへの敵意を強め、キリスト教の成立直後からしばしば迫害を行なった。ギリシア人の下層民や女性、解放奴隷や奴隷などが異邦人の中から改宗者となったが、一般のギリシア人・ローマ人にとっては初めはユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつけられず、ともに彼らは多神教をこばみ、とくに神々と皇帝の像を礼拝ぜず、都市の政治や社会生活にとけ込まない、いまわしい人々とみなされていた。

ローマ文化

ローマ人は先進のエトルリア人・ギリシア人の文化の影響を強くうけた。ことにギリシア人の哲学・美術など精神性の高い文化に対しては、これを模倣するのみで独創的文化をつくりだすにいたらなかった。

ローマの歴史記述は神官の記録した暦や出来事の記録から始まり、共和政中期に歴史書も著されたが、最初の本格的なローマ史はギリシア人でローマに人質となったポリュビオスの『歴史』によって書かれた。

エピクテトス・プロティノス・プルタルコス・プトレマイオス・ストラボン・ガレノスはギリシア人であり、ローマ帝国の時代でもなおギリシア文化がローマ人を支配すらしていたことがうかがえる。

アジア・アメリカの古代文明

インドの古代文明

西北インドの情勢
グレコ・バクトリア王国

西北インドでは、マウリヤ朝崩壊後に中央アジア方面からの異民族の侵入が相次いだ。まず到来したのはバクトリア王国のギリシア人で、紀元前2世紀初めから侵入を開始し、同世紀の後半に本国バクトリアの領土を失うと、パンジャーブ地方に本拠地を移した。ギリシア人の諸王のなかでは紀元前150年ころにでたメナンドロス1世が名高い。仏教文献の『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハー)』によると、この王はギリシア的信仰を捨て仏教の信者になったという。

大月氏国 冒頓単于 スキタイと匈奴 漢の興起 月氏 バクトリア王国 パルティア 紀元前2世紀後半の世界地図
紀元前2世紀後半の世界地図 ©世界の歴史まっぷ
  • 西北インドでは、マウリヤ朝崩壊後に中央アジア方面からの異民族の侵入が相次いだ。まず到来したのはバクトリア王国のギリシア人で、紀元前2世紀初めから侵入を開始し、同世紀の後半に本国バクトリアの領土を失うと、パンジャーブ地方に本拠地を移した。ギリシア人の諸王のなかでは紀元前150年ころにでたメナンドロス1世が名高い。仏教文献の『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハー)』によると、この王はギリシア的信仰を捨て仏教の信者になったという。

アジア諸地域の繁栄

トルコ世界とイラン世界

オスマン帝国の拡大

メフメト2世(位1444〜1446、1451〜1481)は、1453年コンスタンティノープルを約10万の兵を率いて包囲、約50日の攻防ののちこれを攻略し、エディルネから首都を移した。メフメト2世は、荒れ果てたイスタンブルの復興をはかり、戦乱を逃れたギリシア人などを移住させ、みずからモスクやマドラサなどの宗教施設と市場・隊商宿などの商業施設とを連結させた複合施設の建設を進めた。このようなワクフによって、街区や水道などの都市施設が整備され、1478年にはマルマラ海に臨む一角にトプカプ宮殿を完成した。

オスマン帝国下の社会

オスマン政府は、関税など財政収入をえる意味でも、また首都イスタンブルヘの穀物をはじめとする必需品を確保する意味でも、貿易を保護・奨励し、ギリシア人・アルメニア人・ユダヤ教徒などの領内の少数民族の商人に特権を与え、16世紀以降フランス ・イギリス・オランダなどの諸国に対しては領事裁判権を含む通商特権を認めた条約(カピチュレーション capitulations)を結んだ。

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ギリシア独立戦争

こうした情勢のもと1829年ロシアとオスマン帝国間でアドリアノープル条約 Adrianople が締結され、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通航権の確保や領土の割譲をオスマン帝国に強制しながら、ギリシアの独立が両国間で認められた。翌30年ロンドン会議 London が開催されて国際的認証がなされ、1832年、バイエルンの王子オットーが国王としてむかえられ、ギリシア王国が成立した。しかし領土はペロポネソス半島に限定されたため、ギリシア人のあいだには不満が残った。

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

オスマン帝国の改革

1821年にギリシア人を中心とした独立運動がおこると(ギリシア独立戦争)、鎮圧のためにスルタンはムハンマド=アリーに出兵を要請した。これに英・仏・露諸国が介入し、ナヴァリノの海戦 Navarino (1827)においてオスマン帝国と・エジプト軍を破り、1829年のアドリアノープル条約 Adrianople によって、ギリシアの独立が認められた。

  • 1821年にギリシア人を中心とした独立運動がおこると(ギリシア独立戦争)、鎮圧のためにスルタンはムハンマド=アリーに出兵を要請した。これに英・仏・露諸国が介入し、ナヴァリノの海戦 Navarino (1827)においてオスマン帝国と・エジプト軍を破り、1829年のアドリアノープル条約 Adrianople によって、ギリシアの独立が認められた。
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