フビライ=ハン
フビライ肖像画(国立故宮博物館蔵) ©Public Domain

モンケ=ハン

テムル

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フビライ=ハン (忽必烈) A.D.1215〜A.D.1294

モンゴル帝国の第5代皇帝。チンギス=ハンの四男トルイと正室ソルコクタニ・ベキの間の次男。中国へモンゴル帝国の領土を拡張し元(王朝)を創始、南宋を滅ぼす。近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。
拡張政策を進め鎌倉時代の日本へも侵攻を試みる(元寇)が失敗に終わる。

フビライ=ハン

中国征服王朝「元」を創始する

チンギス=ハン死後、2代ハンに就いたオゴタイの治世に、バトゥが南ロシアから東欧を征服。4代ハンのモンケの治世には、フレグがイスラム帝国アッバース朝を滅ぼした。モンケの弟フビライは、このとき中国へ進出していた。
河北から南下し、大理国(現・雲南省)、吐蕃(現・チベット)を征服。南宋へ入ったところでモンケが急死。このため、フビライはクリルタイ(集会)を開かずに第5代ハンに即位した。
このことで、末弟のアリクブケや、一族のハイドゥが反乱を起こすが、フビライはこれを抑える。しかし、西方に建国されたチャガタイ・ハン国キプチャク・ハン国の宗主権を失った。そこで、フビライは、次弟フレグの建てたイルハン国と緊密な関係を保ちながら、中国支配に力を注ぎ、大都(現・北京)を首都とし、元朝を創始し、南宋を滅ぼした。
フビライは、中国の官制はそのままにしたが、科挙は重視せず、モンゴル人に政権の中枢を握らせ、色目人(西域地方の諸部族)を財務担当に就けた。通貨を統一、紙幣を本格的に流通させた。
外交では拡張政策を続け、朝鮮半島を支配。ミャンマー、カンボジアの王朝を滅ぼした。しかしベトナムや日本の征服は失敗した。広大な領土では駅伝制が整い、東西の交流が盛んになった。マルコ・ポーロも、この時代のフビライに仕えた。

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モンゴル帝国帝位継承戦争

1260年から1264年(アリクブケの乱とも。)
トルイの長男モンケの急死により、モンケの年若い息子達にかわって3人の弟達(次男フビライ、三男フレグ、四男アリクブケ)が後継者となる可能性が生じた。アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。
一方のフビライは、モンケが死んだとき中軍が北帰して取り残されて長江の中流域で転戦していたウリヤンカダイを救出したことから(フビライの南征)、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。1260年、フビライの本拠地、金蓮川でフビライ支持派によるクリルタイが開かれ、フビライのカアン即位を一方的に宣言した。5月にはアリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はフビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。

三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため(フレグの西征)、皇帝位を巡る争いは次弟のフビライと末弟のアリクブケが当事者となった。この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたフビライ側が緒戦のシトム・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国農耕地帯の豊かな物資を背景にフビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。1264年、アリクブケは降伏し、フビライが単独の皇帝となった。

モンゴル宗室の系図

ハイドゥの乱
モンゴル宗室の系図

ハイドゥの乱

モンケが急死すると、次弟のフビライ(ハン)(1260から1294)が末弟のアリクブケを破って大ハン位に即位した。この内紛を契機にオゴタイの孫のハイドゥもハンを自称してチャガタイ、キプチャク両王家と結んで中央アジアで挙兵し、約40年におよびモンゴル皇帝(大ハーン)フビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このハイドゥの一連の行動は一般に「ハイドゥの乱」と呼ばれる。反乱はハイドゥの戦傷死まで断続的に続いた。

ハイドゥの属するオゴタイ=ハン家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユクが1248年に没すると、トルイ家に帝位を奪われ、ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。これに不満をもったハイドゥは、1259年に第4代皇帝モンケが急死してその弟のフビライとアリクブケが後継者争い(モンゴル帝国帝位継承戦争)を始めるとアリクブケに与し、この内紛がアリクブケの敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求するフビライの求めを拒否した。この混乱の間にハイドゥはオゴタイ=ハン家内での権力を掌握し、1266年に西北モンゴリアにいたフビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明確にした。

フビライは、新当主ムバーラク・シャー(チャガタイ家)を母后オルガナ(チャガタイ・ハン国第4代君主)が摂政として補佐するチャガタイ家の勢力を吸収して西方の諸王家を掌握することを狙い、ムバーラク・シャーの叔父イェスン・トアの次男であったバラク(チャガタイ家の第7代当主)をチャガタイ家の本領イリに派遣した。しかし、バラクはフビライからあくまで共同統治、せいぜい補佐を命じられていたにもかかわらず、ムバーラク・シャーが年少であるのを理由に力ずくで当主位を奪い、後見すると称して服属させてしまった。こうしてバラクはイリ方面のチャガタイ家の勢力を統合すると、隣接するハイドゥの勢力を狙い、西進するようになった。

モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ

ハイドゥは西南で境を接するチャガタイ家のウルス(チャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクとマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐって争ったが、1269年に至り、バラクおよび西北ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟し、マー・ワラー・アンナフル領を両家で分割するとともに、共同してフビライへ反旗を翻すことを決した。

元の東アジア支配

フビライは、即位前に大理だいり国(雲南)や吐蕃とばん(チベット)を攻略し、さらに淮水わいすい以北の華北の統治をまかされ、漢人の知識人や軍人を重用して中国風の統治政策を採用した。こうした華北支配を背景に即位したフビライは、中国風の元号をたて、1246年、カラコムから大都だいと(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風に「元(王朝)」と称した。
その間も南宋への侵攻は続けられ、江南の要衝である襄陽じょうよう鄂州がくしゅうを落とした元軍は、1276年、南宋の首都臨安りんあんを占領した。一部のものは皇帝の一族を擁して南方に逃れ、抗戦を試みたが、1279年、広東かんとん沖の崖山がいざんの戦いで敗れ、南宋は滅亡した。
こうして元(王朝)による中国全土の支配は完成したが、異民族によって中国全土が支配されたのはこれが初めてであった。

元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

元(王朝)の領土は、フビライの時に最大となり、モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし、チベット、高麗を属国とした。
さらに日本征服や南海への遠征を企て、日本をはじめベトナム、カンボジア、ミャンマー(ビルマ)、ジャワに侵攻した。
1274年文永の役、1281年弘安の役の2回の日本遠征(元寇)は、鎌倉武士の抵抗と暴風雨のため失敗した。
ベトナムの陳朝への3回にわたる遠征は、いったんは首都ハノイを占領したものの民衆の激しい抵抗によりって撃退された。
1292年のジャワ遠征でも、元軍は大損害をこうむり撃退された。

元(王朝)は中国の君主独裁体制の機構を継承し、中央には中書省(行政)、御史台(監察)、枢密院(軍政)を根幹とする中央集権的支配機構を組織した。地方の行政機構では、従来の州県制を継承し、さらにその上級の行政区画として行中書省ぎょうちゅうしょしょうと路が設けられ、路以下には監督官としてモンゴル人のダルガチが任命された、
また、中央政府の要職や地方行政機関の長を少数のモンゴル人が征服者として独占した。しかし、圧倒的多数を占める中国人を支配するためには第三者の協力を必要とした。これが色目人しきもくじんと総称されたウィグル、タングート、イランをはじめとする中央アジア、西アジア出身の諸民族である。彼らは元朝の財政面で重要な役割を果たした。
一方、人口の大多数を占める中国人については、旧金朝支配下の華北の住民は漢人と呼ばれた。元朝の高級官僚の任用は、世襲や恩蔭おんいんによっておこなわれたために科挙は一時廃止され、中国人の士大夫階級は、高級官僚への道を閉ざされてしまい、末端の実務を担当する胥吏しょりにならざるをえなかった。
やがて士大夫階級を懐柔するために、14世紀前半、幻聴第4代仁宗が科挙を復活したが、武人や実務に従事する官僚が重視されたため、漢人、南人には不利なものであった。

元(王朝)は中国全土を征服したが、直接支配できたのは旧金朝支配下の華北だけであり、江南では宋代以来の地主層の勢力が温存され、地主佃戸制が従来通り継続された。
税制面でも、華北ではあらたに税糧と科差が施行されたが、江南では南宋以来の両税法が継承された。また、モンゴル人などの支配層は、強力な武力を背景に重税を課したので、中国人農民の元朝への不満は高まった。

交通・貿易の発達

元代にはムスリム商人の活躍により、インド洋、南シナ海を中心に、南海との通商が東西貿易の主流となった。
とりわけ元は、中国の卓越した生産力と商業発展を基礎にこの海上貿易に積極的に加わり、江南の杭州、明州、泉州、広州などの港市が繁栄した。
マルコ・ポーロは、『世界の記述(東方見聞録)』の中で、杭州をキンザイ(宋の臨時宮廷=行在に由来)、泉州をザイトン(泉州城の別名刺桐城に由来)の名で紹介し、とくに泉州を世界最大級の貿易港と述べている。南宋末から元にかけて、泉州の市舶司長官として実権を握っていたのは、アラブ系(またはイラン系)の豪商の蒲寿庚ほじゅこうという人物であった。

こうした海陸の交通路の発達により、多くのムスリム商人が中国に入り、モンゴル人皇帝や貴族の領地内での徴税請負や高利貸しを行なうようになった。これらのムスリム商人は、斡脱あつだつと呼ばれ、チンギス=ハンの時代以来、資金源、情報源としてモンゴルの発展と密接な関係にあった。

通恵河開削

13世紀末、フビライは、人口の増加した首都大都に江南から食料を運ぶため、隋代以来の大運河を補修するとともに、新たに大都と通州との間に通恵河つうけいが(全長80km)を開削した。
これによって華北と江南を結ぶ大運河のほか、渤海湾に面した直沽ちょくこ(現天津)からの開運物資も大都に運ぶことが可能となり、江南から山東半島を回って大都方面にいたる海運も発達した。
新しい運河は大都の中心の積水潭せきすいたんまでつながり、大都は内陸都市でありながら港をもつようになった。こうして元の首都大都は名実ともに海陸の交通の拠点となり、元末には人口は100万に達した。

外征と内政

軍事的には、アリクブケの乱以来、中央アジアのオゴタイ=ハン家とチャガタイ家がハーンの権威から離れ、本来はハーンの直轄領であった中央アジアのオアシス地帯を横領、さらにフビライに従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。

そこで、フビライは夫人チャブイとの間に設けた3人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。安西王マンガラはフビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、フビライは3子率いる3大軍団の上に君臨した。

1276年には将軍バヤン(バアリン部)率いる大軍が南宋の都臨安(現杭州市)を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(モンゴル・南宋戦争)。
この前後にフビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらした。これにともなって東西交通が盛んになり、フビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。

中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄さんべつしょうの反乱を鎮圧した後、13世紀末には事実上滅亡させ、傀儡政権として王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させた王太子王賰の王統を立て(第25代高麗王・忠烈王)朝鮮半島支配を確立した。
また1287年にはビルマのパガン王朝を事実上滅亡させ(→モンゴルのビルマ侵攻)、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。
しかし、日本への2度の侵攻(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国(→モンゴルのヴェトナム侵攻)、ジャワ島のマジャパヒト王国(→モンゴルのジャワ侵攻)などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。

モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、1275年にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、翌年モンケの遺児シリギをはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こした。司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴタイ=ハン家のハイドゥが中央アジアの諸王家を統合して公然とフビライに対抗し始めた。

フビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けハイドゥを防がせたが、1287年には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛いた。
老齢のフビライ自身がキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。フビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えた。ハイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、フビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、ハイドゥ軍を撤退させた。カチウン家の王族カダアン(哈丹大王)がなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を劫掠したが、1292年に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した(ナヤン・カダアンの乱)。

晩年

フビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、1273年に皇太子に冊立された。
一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。

対立が頂点に達した1282年、アフマドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。この事件の後アフマドの遺族も失脚し、政争はチンキム派が最終的な勝利を収めた。これにより皇太子チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、フビライに対してチンキムへの譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは1285年に病死してしまった。

一方、ハイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねた。外征を支えるためにフビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。1287年に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚サンガも1291年には失脚させられ、フビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかった。

1293年、フビライは高原の総司令官バヤンを召還し、チンキムの子である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、翌1294年2月18日に大都宮城の紫檀殿で病没した。遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所であるモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。同年5月10日、フビライの後継者となっていた皇太孫テムルが上都で即位するが、その治下でハイドゥの乱は収まり、フビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになる。

テムルが即位した1294年6月3日には、聖德神功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・カアン(薛禪皇帝)と追贈された。

フビライが登場する作品

フビライ・ハン

フビライ
フビライ・ハン ©)Beijing Sunshine Sheng Tong Culture and Arts Co. Ltd.
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