グレートブリテン王国(
A.D.1707〜A.D.1801)
合同法(1707)により、イングランド王国とスコットランド王国が合併した、グレートブリテン島全土を統治する連合王国。首都:ロンドン。
- ステュアート朝(1707〜1714):アン(イギリス女王)
- ハノーヴァー朝(1714〜1801):ジョージ1世(イギリス王), ジョージ2世(イギリス王), ジョージ3世(イギリス王)
グレートブリテン王国
概要
- 1603年にイングランド王国ステュアート朝のジェームズ1世(イングランド王)がイングランドとスコットランドの王を兼ね、両国は同君連合の関係となる。
- 1707年のアン(イギリス女王)時代の合同法(1707)により、両国の議会は統一されて一つの国家となる。(1999年にスコットランドの自治拡大政策によってスコットランド議会は復活。アイルランド王国も1694年以降、イングランドに実効支配されていたが、このときは合同しなかった。1254年以降イングランド王室の個人領地になっているチャンネル諸島と1765年にマン島購入法で王室属領になったマン島も王国に合同しなかった。)
- 1776年にアメリカ合衆国が独立。
- 1789年にフランス革命が勃発。アイルランドにおいても革命政権との連携。
- 1798年のアイルランド反乱。この反乱は鎮圧されたが、
- 1800年、首相ウィリアム・ピット(小ピット)が反乱再発防止のために合同法(1800)を成立。
- 1801年にアイルランド王国と合同し、新たにグレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立。
参考 Wikipedia
ヨーロッパ主権国家体制の展開
イギリス立憲政治の発達
王政復古から名誉革命へ
スコットランドでは、1536年にイングランドに併合されたウェールズや、アイルランドとならぶケルト人の国であったが、1707年にいたってイングランドに併合され、イギリスは大ブリテン王国となった。この併合によって、スコットランドは政治的独立を失ったが、ケルト文化の伝統はその後も一貫して残っている。経済的にはイギリス重商主義政策によって抑圧もされたが、イングランドとその植民地を市場とすることができた一面もあった。とくにグラスゴーなどでは、かなりの経済発展がみられ、のちにイギリス産業革命のひとつの中心となる。
1714年にアン(イギリス女王)(位1702〜1714)が死去し、ステュアート朝が絶えると、ドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世(イギリス王)(位1714〜1727)として迎えられ、ハノーヴァー朝(1714〜1917)が成立した(この王朝は、のちにイギリス風にウィンザー朝と名称を変え、現在にいたっている)。40歳をすぎてイギリスにきた王は英語が話せなかったこともあり、国王は「君臨すれども統治せず」という原則が確立した。ホイッグ党のロバート・ウォルポール首相(任1721〜1742)のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立したのである。
歴代国王
ステュアート朝
- アン(イギリス女王)(1707年〜1714年)
ハノーヴァー朝
- ジョージ1世(イギリス王)(1714年〜1727年) ジェームズ1世の曾孫、ハノーファー選帝侯
- ジョージ2世(イギリス王)(1727年〜1760年) ジョージ1世の息子、ハノーファー選帝侯
- ジョージ3世(イギリス王)(1760年〜1800年) ジョージ2世の孫、ハノーファー選帝侯