コンバウン朝
アビシカ式 コンバウン朝王の戴冠(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

コンバウン朝


コンバウン朝 Konbaung (アラウンパヤー朝, A.D.1752〜A.D.1885)

アラウンパヤーが建てたビルマ最後の王朝。タイのアユタヤ朝を破り、雲南を巡って清朝も撃退するなど、ビルマ史上最大版図を実現した。しかしイギリスとの3次に渡るイギリス=ビルマ戦争に敗れ、インド帝国に併合された。

コンバウン朝

首都:シュウェボ → アヴァ → マンダレー
アラウンパヤーが建てたビルマ最後の王朝。タイのアユタヤ朝を破り、雲南を巡って清朝も撃退するなど、ビルマ史上最大版図を実現した。しかしイギリスとの3次に渡るビルマ戦争に敗れ、インド帝国に併合された。

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アジア諸地域の繁栄

清代の中国と隣接諸地域

清朝と東南アジア

ミャンマーの最初の統一王朝であるパガン朝は、1287年に元朝の侵入をうけて滅亡した。その後ミャンマーでは、シャン人のアヴァ朝、モン人のペグー朝、ミャンマー人のトゥングー朝(タウングー朝)の3国の分裂状態がしばらく続いた。しだいにミャンマー人の勢力が強大となり、16世紀にミャンマー人はペグー朝を滅ぼし、ペグーを都とするトゥングー朝(1531〜1752)をたて、その後アヴァ朝をも滅ぼした。トゥングー朝はミャンマー人とモン人の融和をはかり領土を拡大したが、17世紀にはオランダ・イギリスの進出や明・清の侵入をうけ、1752年にはモン人に滅ぼされた。

16世紀末のアジア地図
16世紀末のアジア地図 ©世界の歴史まっぷ

ところがミャンマー人のアラウンパヤー(位1752〜1760)がモン人を退けてコンバウン朝(1752〜1885)をたて、18世紀には全盛期を迎えた。しかし19世紀後半には、インド方面からのイギリスの進出をうけて激しい抵抗をみせたが(イギリス=ビルマ戦争 1824〜1826、52〜53、85〜86)、1886年にイギリスに降伏し、ミャンマーは英領インドに併合された。

南アジア・東南アジア世界の展開

大陸部の諸国の興亡

ミャンマー(ビルマ)では13世紀末にパガン朝が滅んだあと、北部のシャン人(都はアヴァ)や南部のモン人(都はペグー)が台頭した。両国は、しばしば戦闘を交えながらも2世紀以上にわたり政権を維持してきたが、やがてミャンマー人が勢力を回復し、中部のトゥングー(タウングー)に拠っていたミャンマー人が、ペグーとアヴァを攻略して全土を統一した。トゥングー朝(タウングー朝 1531〜1752)は都をベグー(のちアヴァ)におき、タイのアユタヤ朝と戦って領土を広げ、一時はオランダ・イギリスとの交易で栄えたが、のちしだいにモン人に圧倒され1752年に国都アヴァを占領されて滅んだ。しかしこのモン人も、同年にミャンマー人のアラウンパヤー(位1752〜1760)と戦って敗れ、1757年には首都ペグーも陥落した。ここにミャンマー人による3度目の統一王朝コンバウン朝(アラウンパヤー朝 1752〜1885)の成立をみた。

都ははじめシュウェボにおかれた。その後アヴァなどに移され、最後の都はマンダレー(1860〜1885)。

コンバウン朝は清軍(乾隆帝)の侵攻に苦しみつつも、タイのアユタヤ朝と戦ってこれを滅ぼした(1767)。また南西の山岳方面にも領土を広げたが、やがてアッサム方面から進出してきたイギリスと衝突するにいたった。

タイ(シャム)では、ラーマティボディ1世(位1351〜1369)が創始したアユタヤ朝(1351〜1767)が、クメール人のアンコール朝を滅ぼし(1431頃)、北方のスコータイ朝を併合(1438)するなどして四周に領土を広げ、強盛を誇った。首都アユタヤは交易の中心としても栄え、16世紀にはポルトガル、17世紀にはオランダ・フランスの商船がしばしば来航した。アユタヤは朱印船貿易に従事する日本人の活躍の舞台でもあり、この港の日本町には一時1500人の日本人が居住していた。17世紀初めに山田長政やまだながまさ(?〜1630)が仕えたのもこの王朝である。しかし長年にわたるミャンマーとの抗争のすえ、1767年にコンバウン朝によって倒された。

アジア諸地域の動揺

南アジア・東南アジアの植民地化

大反乱とインド帝国の成立

植民地政策を進めるイギリスは、フランスのインドシナ経営に対抗してミャンマー(ビルマ)領有をくわだて、1824年以降3回にわたる戦争(イギリス=ビルマ戦争, 英緬戦争 Anglo-Burmese War, 1824〜26, 1852〜53, 1885〜86)によってコンバウン朝を倒し、全ミャンマーを併合してインド帝国の1州とした。またロシアの南下に備えるためアフガニスタンに出兵し(アフガン戦争 Afghan War, 1838〜42, 1878〜80, 1919)、さらにチベットに出兵してラサ条約を結びこれを従属下においた(1904)。スリランカ(セイロン)には16世紀にポルトガル、17世紀にオランダが進出したが、18世紀にイギリスがオランダを駆逐して、1815年以後、全島がイギリス領となった。

大陸部の植民地化

ミャンマー(ビルマ)のコンバウン朝(アラウンパヤー朝, 1752〜1885)は、アラカン・アッサム方面への進出を試みたが、同じくこの地に野心を抱くイギリスと交戦して敗れ(イギリス=ビルマ戦争)、これらの地を失った(1824〜26, 第1次ビルマ戦争 Anglo-Burmese War)。つづいてイギリスはミャンマー側の条約違反などを口実に戦端を開き、ミャンマー南部を併合した(1852〜53, 第2次ビルマ戦争)。ミャンマー側はフランスと結びこれに対抗しようとしたが、イギリス側は些細な問題を口実に王を捕らえて王朝を滅ぼし、ミャンマー北部を併合した(1885〜86, 第3次ビルマ戦争)。こうして全ミャンマーはカルカッタを首都とするインド帝国の1州とされた(1935年にインド帝国から分離される)。

東南アジアへの侵略と統治地図
東南アジアへの侵略と統治地図 ©世界の歴史まっぷ
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