サン=ステファノ条約 A.D.1878〜
ロシア=トルコ戦争の講和条約。この条約でルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化などを決め、ロシアはバルカンで勢力を拡大したが、イギリス・オーストリアの激しい反発をまねいた。
サン=ステファノ条約
ロシア=トルコ戦争の講和条約。この条約でロシアはバルカンで勢力を拡大したが、イギリス・オーストリアの激しい反発をまねいた。
- オスマン帝国の多額の賠償金
- アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、およびアナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バヤジト地方のロシアへの割譲
- ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認
- ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大ブルガリア公国が成立)
- ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与
参考 Wikipedia
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
東方問題とロシアの南下政策
1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義 Pan-Slavism の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。
セルビア・モンテネグロ・ブルガリアなどの地は南スラヴ系民族が多く、ロシアはこうした地域のスラヴ民族運動を利用して、バルカン半島への南下をはかった(パン=スラヴ主義)。ロシア=トルコ戦争(1877〜78)のサン=ステファノ講和条約で、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立や、エーゲ海におよぶブルガリア自治公国(大ブルガリア)をロシアの保護下におくことが認められた。これにより一時、ロシアの南下政策は成功したかにみえたが、ベルリン会議(1878)で挫折した。
イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義
を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。
この結果ベルリン条約が結ばれて、ロシアはクリミア戦争で失ったベッサラビアの一部など若干の領土を獲得したが、列強の圧力によってサン=ステファノ条約が改廃されてブルガリアの領土が縮小され、同時にロシアの影響が排除された。またイギリスがキプロス島の管理権を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方の統治権を獲得したので、ロシアの南下政策はまたまた挫折することになった。
- 東方問題とロシアの南下政策 – 世界の歴史まっぷ
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
オスマン帝国の改革
西アジアの動向 オスマン帝国
オスマン帝国 | |
1683 | 第2次ウィーン包囲失敗 |
1699 | カルロヴィッツ条約(対オーストラリア) |
1716 | トルコ=オーストリア戦争(〜18) |
1718 | パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30) |
1744頃 | ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド |
1768 | 第1次ロシア=トルコ戦争(〜74) |
1774 | キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア) |
1787 | 第2次ロシア=トルコ戦争(〜92) |
1792 | ヤッシー条約(対ロシア) |
1821 | ギリシア独立戦争(〜29) |
1826 | イェニチェリを全廃 |
1827 | ナヴァリノの海戦 |
1829 | アドリアノープル条約(対ロシア) |
1830 | フランス、アルジェリアを占領 |
1831 | 第1次エジプト=トルコ戦争(〜33) |
1833 | ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア) |
1838 | イギリス=トルコ通商条約 |
1839 | ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40) |
1853 | クリミア戦争(〜56) |
1856 | パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア) |
1865 | 新オスマン人協会結成 |
1876 | ミドハト憲法発布 |
1877 | ロシア=トルコ戦争(〜78) |
1878 | アブデュル=ハミト2世、憲法を停止 |
1878 | サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う |
1881 | フランス、チュニジアを保護国化 |
1881 | スーダンでマフディー派の抵抗(〜98) |