チンギス=ハン
チンギス=ハン 肖像画(故宮博物館蔵) ©Public Domain

チンギス=ハン


チンギス=ハン 1162年5月31日〜1227年8月25日
モンゴル帝国創始者。モンゴル帝国初代皇帝(在位:1206年 – 1227年)
モンゴルの遊牧民諸族を統一して中央集権国家を築き、史上最大のモンゴル帝国の基盤をつくる。

チンギス=ハン

貧しい少年から諸部族統一者に成長

12世紀のモンゴル高原。遼が女真族に滅ぼされてからは、諸部族が勢力を争う時代が続いていた。その中で頭角を現した男がいた。草原の青い狼を先祖にもつというテムジンである。
テムジンとは「鉄の人」の意味。名門士族の長男で、生まれたとき右手に血の塊を握っていたという。しかし13歳頃に父を失う。他部族のタタル部に毒殺されたのだ。
テムジンは母と弟たちを抱え、野草や魚を採って飢えをしのいだ。
17歳頃結婚するも、メルキト部の襲撃にあい、妻をさらわれる。他部族の力を借りて妻を奪還すると、メルキト部を撃滅。長身で逞しく成長したテムジンは、他部族の征服に動き、40代でモンゴル高原の全諸部族を統一した。
テムジンはクリルタイ(集会)でハン(王)の地位につき、シャーマン(巫者)から”光の神”の意味の「チンギス」の名をうけた。チンギス・ハンは、遊牧民の千戸制と呼ばれる集団を95個編成し、中央集権制をしき、行政組織と軍事組織を統一。各戸の長に腹心の部下を送り込み、戸単位で、騎馬軍団を育成させた。

最強騎馬軍団を組織し諸国を併合

チンギスは、ウイグル、西遼、女真を征圧。軽量で強いモンゴル弓を使い、機動性の高い装備のモンゴル騎馬兵は、接近戦に滅法強かった。友好の使節を送ってもそれを無視したり使者を殺したりした国を、チンギスは決して許さなかった。トルコ系イスラム国家ホラズム朝に対しては徹底的な殺戮と破壊、略奪を行い、南ロシアや北インドなど、周辺国家を震え上がらせた。
チンギスは征服地に能力のあるものがいると、それが多民族であっても重用した。また自身はシャーマニズムを信仰していたが、他宗教には寛大であった。多文化も大いに学んだという。
シルクロードと草原の道はモンゴル帝国の支配下に入り、チンギスは豊かな財力を手にした。こうして、氏族的な騎馬民族社会が、チンギス一代で広大なユーラシアを支配する専制国家に成長することになった。
チンギスは西夏殲滅の帰途、落馬による傷がもとで病没した。遺体はモンゴルに戻り、ケルレン河畔に葬られたが、樹木が生い茂り、場所は未だに不明だという。

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チンギス=ハン
1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、チンギス=ハンとして即位する。(集史より)©Public Domain

千戸制とケシク

チンギス=ハンは、千戸制によって支配下のモンゴル系、トルコ系の遊牧民を95(一説に129)の千戸単位の集団に分割し、一族、功臣をその千戸長に任命した。
千戸制は、平時の行政単位であるとともに、戦時には、1000人の兵士を動員する戦術単位でもあり、その内部も十進法によって百戸、十戸単位に組織され、それぞれ百戸長、十戸長が任命された。
このように遊牧民を十進法体系で組織する習慣は、匈奴以来の遊牧民にしばしばみられたが、チンギス=ハンは、タタール、ケイレト、ナイマンなどの敵対部族を征服すると、その部族民を各千戸集団に振り分け、人工的な部族組織を編成した。
95戸の集団のうち24戸は一族に与えられたが、残りはチンギス=ハンのもとで指揮官が任命されてモンゴル高原に展開した。
中央にはケシクと呼ばれるチンギス=ハンみずから指揮する親衛軍がおかれた。ケシクは兵力1万の軍隊で、兵士は功臣や千戸長、百戸長、十戸長の子弟から集められた、いわばエリート集団であった。平時は護衛や宮廷の職務に従い、戦時にはチンギス=ハンのもとで戦闘に参加した。要職にはケシクの構成員が派遣され、その子弟が新たにケシクに加わった。ケシクは、チンギス=ハンを中心に強力な連帯意識をもった親衛軍であるとともに、モンゴル帝国の支配階級の養成機関でもあった。

チンギス=ハンの支配地と征服・遠征路

元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

第一次対金戦争

1211年〜1215年、モンゴル帝国と金(王朝)との間で行われた戦争。モンゴル軍が大勝した。
この結果、東アジア諸国の力関係は激変し、金朝の本土である満州ではモンゴルに投降する集団が数多く出た。

第一次対金戦争 – 世界の歴史まっぷ

チンギス=ハンの西征

西遼(カラ・キタイ)征服

1218年、西遼(カラ・キタイ)がほぼ自滅に近い形で滅び、その多くがモンゴル帝国の領土になると、両者は直接領土を接することとなった。同年、ホラズムの東方国境近くのオトラルで太守イナルチュクによってチンギス=ハンが派遣した通商団が虐殺され、この事件の報復を理由にしてモンゴル帝国はホラズム・シャー朝への遠征を決定したといわれる。

ホラズム・シャー朝征服

1219年、モンゴル高原を弟のテムゲ・オッチギンに任せ、チンギス=ハンはホラズム・シャー朝への遠征を開始した。モンゴル軍はオトラルに到着すると、第一次対金戦争の時と同様全軍を三つに分け、整然とホラズムに侵入した。1220年にホラズム・シャー朝はほぼ崩壊した。
チンギス=ハンの長子ジョチと次子チャガタイとの間でウルゲンチの攻め方で対立があり、三男のオゴタイ=ハンが仲裁に入ったことでその器量を示したという逸話もある。

アフガニスタン・インド侵攻

ニーシャープール、ヘラート、バルフ、などといった古代からの大都市も略奪され、完全に破壊されたとされる。

ルーシ侵攻

1223年、カルカ河畔の戦い: ジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍とポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われた戦い。連合軍は数で上回っていたにもかかわらずモンゴル軍に惨敗した。

ヴォルガ・ブルガール侵攻

サマラ屈曲部の戦い(ケルネクの戦い)で、モンゴル軍はブルガールに敗れ、1222年夏、チンギス=ハンはこの方面の作戦に見切りをつけ、本拠地たるモンゴル高原への撤退を始めていた。全軍はゆっくりと進み、途中でスブタイ率いる別働隊(ジェベは帰還途上で病没)と合流し、1225年にモンゴル高原へ帰還した。

影響

一連の戦闘によって西方の新興国ホラズム・シャー朝を降し、中央アジアを傘下に入れたモンゴル帝国は、名実ともに当時のユーラシア大陸で最強の国家となり、遠く西ヨーロッパまでその名を知られることとなった。一方で、後のモンゴルの「野蛮な未開人」・「文明の破壊者」といった負のイメージの多くも、この頃のアフガニスタン方面での虐殺に根ざしている。

チンギス=ハンの西征 – 世界の歴史まっぷ

モンゴル帝国最大版図

モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ

チンギス=ハンの西征から帰ったチンギスは、広大になった領地を分割た。

  • 長男ジョチ: 南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地
  • 次男チャガタイ: 中央アジアの西遼の故地
  • 三男オゴタイ=ハン: 西モンゴルおよびジュンガリアの支配権
  • 末子トルイ: その時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴタイ=ハンを指名していたとされる。

モンゴル宗室の系図

ハイドゥの乱
モンゴル宗室の系図

宗室

『集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの多くの男子のうち、 フビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴタイ=ハン家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。

子女
男子
  • 長男・ジョチ (母 ボルテ) ジョチ・ウルス始祖。
  • 次男・チャガタイ (母 ボルテ)
  • 三男・オゴタイ=ハン (母 ボルテ) モンゴル帝国第2代皇帝
  • 四男・トルイ (母 ボルテ) フビライの父
  • コルゲン(次六 闊列堅太子) (母 クラン)
  • チャウル (母 イェスゲン)
  • ジョルチダイ
  • ウルジュカン(次五 兀赤、無嗣)
  • 氏名不明 (母 タタル部族出身の側室)
女子
  • コアジン・ベキ – 叔母であるテムルンの死後、イキレス氏のブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ
  • チェチェゲン – 『元朝秘史』ではオイラト駙馬家の首長クドカ・ベキの息子イナルチに与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟トレルチに与えられたとされる
  • アラガイ・ベキ – オングト駙馬王家の首長アラクシ・テギン・クリの孫ボヤンカに嫁ぐ
  • トムルン – 同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟アルチ・ノヤンの長男チグウ・キュレゲンに嫁ぐ
  • アルタルン – ホエルンの弟タイチュ・キュレゲンの息子チャウル・セチェンに嫁ぐ
  • イル・アルタイ(アル・アルトゥン) – 母不詳。天山ウイグル王国に嫁ぐ。

チンギス=ハンが登場する作品

フビライ・ハン

チンギス=ハン
フビライ・ハン ©)Beijing Sunshine Sheng Tong Culture and Arts Co. Ltd.
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